過ぎていった人へ

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本田耕平 2012/12/2

Sony CSL 関連の訃報を聞くのは残念なこと。あそこの人は生き急ぎ過ぎなのか。

僕がSony CSL にいた時に、既に就職していた彼が Sony CSL に来て自分で作ったプログラム言語を当時のEPSON 286のノートPCでデモンストレーションしてくれたのが最初でした。一発で面白い人だと思った。でも、CSLには参加せずに、慶応の大学院へ。少し回り道だったが、結果的に正しかった。

そこで、π計算のレクチャーを聞き、当時一緒だった佐藤一郎氏とかと一緒に勉強することに。僕は一緒に慶応で勉強会した記憶があります。その翌年には独自のオブジェクト指向なプロセス代数を作っていました。そのまま英国に行ってしまいました。まさか異国の地でなくなるとは。

温和な人だが、情熱がある。ろうそくの炎のような感じの才能だった。人の論文や話を良く聞き、理解してくれる人でした。それだけに周りの影響を受けやすい人だった。だからこそ、エジンバラの環境が良かったのだと思います。

π計算の先にあるものが何かは僕はあまり良く見えなかったが、彼は、そこに計算の本質と、正しいプログラミングの未来を見ていたと思います。

最後にあったのは、2004年のVenisだったらしい。良い人から亡くなっていく。おしいことです。

脳卒中は割と年齢関係しない。脳の血管の奇形とかがきっかけになったり。今はカテーテル手術とかがあるので場所によっては助かるのですが。母のくも膜下出血と同じで一度MRIとか取ってみると良いです。(特に酒飲みね)


itojun 萩野純一郎 2007/10/29

10/20 に会ったばっかりだったのに。37歳。3月には、琉大で授業を持ってもらいました。
   http://tinyurl.com/yvg4nt 

9月にはSF World Conference にさそってもらいました。

誰もが認める日本を代表するハッカーですが、本人には少し重荷だったか? 日本で英語が出来るハッカーってのは、珍しいし。

欝だと言うのは知ってましたが、天才には付き物みたいなものだ。彼を受け入れられる余地がないような社会には絶望しますが... 危ないってのがわかっていても、結局、何も出来なかった。

地球にいる一人一人が直接継れる世界をIP/IPv6 は目指していたのだと思う。僕は、それを目指す。たった一人、置いていかれたとしても。


渡嘉敷 浩樹 2003/02/8

カナダに留学中スキーにいく途中の交通事故で死亡。31歳。奥さんが生き残ったのが不幸中の幸いか。カナダと沖縄で両方の葬式。

ロボットの公開講座とか沖縄の人には珍しくモティベーションの高い人だった。福岡生まれだったからか? お父さんも大学教授で、そういう家系の人だったのかも知れない。

優秀な人だったので、とっても残念。お母さんが「こんなにあっけないものなのか?」と言っていたが、人の一生なんて、本当に儚いものだ。

少し世代差があるのか、僕がそういうようになっているのか、割りと付き合いは浅かった感じ。その意味でももったいなかった。儚いものだけに人と人との付き合いを大切にしよう。つまらない人よりも面白い人との時間を作るようにしたい。そして、自分も人に時間を割いてもらう価値を持つようにしなくては。


比嘉 涼次 2000/08/22

琉球大学の卒業生。東京に行って3ヵ月で通勤時の交通事故で死亡。24歳は若すぎる。謝恩会で見たのが最後か。

情報工学3年のPlayStationの実験で、はじめてあった気がする。あまり授業にでない奴だったのかも知れない。ゲームの同人ソフトを作っていたようで、PlayStation グループの立ち上げに大きな働きをしてくれた。今でも彼の作ったライブラリを使って学生がプログラムしている。

Direct-X でプロトタイプを作ってから、PlayStation 側に持って行くという手法が面白かった。また、比較的劣悪な開発環境でも、あまり苦にしてないようなところがあった。外に見せないだけだったのかも知れないが。技術を自分の中にとどめておくというよりは、公開していく姿勢があるのは、同人ソフトに関わったからかも知れない。

ゲームの独創性などでは、少し物足りないところはあったが、情報収集と実装力では、琉大生の中ではずば抜けていただけに残念だ。無口でクールな感じ。もう少し一緒に仕事をしてみたかった。


渡 滋 1999/07/26

大学教授。大学院で一緒だったのだが、ソニーCSLで一緒になるまでは面識はなかった。今から考えるともったいなかった。日系ブラジル人だけど、彼は日本人と言う意識はあまりなかったようだ。ブラジルに帰った直後に、凶弾に倒れてしまった。CIA 陰謀説とかが出るあたりが彼らしい。42歳のはず。

どちらかといえば哲学的な思考をする人で、オープンな生き方をする人だった。彼の周りには僕を含めていろんな人が集まっていた。もっと歳を取ると面白くなるような感じがするやつだった。

京都であったのが最後だったのだが、なんとなく、最後に抱きあって別れたのは予感だったのか...

ブラジルに残された奥さんと子どもを見守っていきたい。


津野孝之 1998/08/22

同僚ではないがソニーの人。ソニーのDV カメラなどに関わっていたらしい。蜘蛛膜下出血。自宅のアパートで就寝中に亡くなった。その前の6月に一緒に台湾に行ったばかりだったのに。ロータス・エランを愛した人。漢粋で、食事した時が一番楽しそうだった。彼がいないと食事会は、盛り上がりに欠けるかも知れない。

彼の死を聞いたときに、生きている間に好きなことをした方が良いと思った記憶がある。誰でも考えることか。


父 1995/04/07

当時のメールより

父(河野克己)は家具工場(本人は日本一のテーブル専門工場だともうしておりました) をたたんだ後、脳硬塞を患い都立大塚病院に通院しておりました。幸い、脳硬塞の後遺症は軽く、車の運転はできませんが、ゴルフや絵画などを楽しむ生活を続けていました。昨年、2月に胃癌が大塚病院にて発見され3月に手術いたしました。直る癌だといわれてましたし、実際その後、順調に回復し、ゴルフなどもできるようになっていたのですが、2月に再発し、一ヵ月の再入院の後、4月7日午後2:43分に大塚病院にて亡くなりました。66歳でした。癌にもかかわらず、ほとんど痛みもなく軽眠状態から徐々に呼吸が弱くなるという安らかな臨終でした。

脳硬塞などはニコチン、胃癌は食生活などが原因になことが多いようです。みなさまも、健康にはご注意願います。脳硬塞などでは楽しみも減ってしまいます。また、胃癌の進行は驚く程、速いものですから、癌検診などを活用してくださいね。

(亡くなった夜に雨、葬式の時に桜が満開だったのを思い出す)


Shinji Kono 河野真治 / Fri Dec 14 22:04:14 2012