ハッカー界小史

A Brief History of Hackerdom <http://www.tuxedo.org/~esr/faqs/hacker-hist.html>


著者 エリック・レイモンド <esr@thyrsus.com>
訳者 山形浩生 <hiyori13@alum.mit.edu>



©1998 Eric S. Raymond, ©1999 YAMAGATA Hiroo

 本文書はGPLのもとにおかれておるのだ。コピー改変再配布してもよろしいが、そいつもちゃんとGPLにして、版権表示もちゃんと入れるのだぞ。

 この文書の古い版に基づく、中谷千絵の古い訳があるそうだけれど、今回の訳ではまったく参照していない。あと、倉骨彰訳でこの文の別の訳が「真のプログラマたちの国 概略史」というタイトルで、『オープンソースソフトウェア』(オライリー)に収録されるはずだが、とっても不安の多い代物になっているようだ。なんとかならんのか。(ならなかった。そのまま出た。Webに出たときも反省のいろなーし!)



プロローグ:「本物のプログラマ」


 はじめに、「本物のプログラマ」たちありき。

 かの人物たちが、自らこのように名乗ったわけではない。「ハッカー」とも自称しなかったし、なにか特に名前があったわけでもない。「本物のプログラマ」なる呼称は、1980 年以降まで使われなかった。しかしながら 1945 年からこのかた、計算機テクノロジーは世界最高の聡明でクリエイティブな頭脳をひきつけてきた。エッカートとモークリーの ENIAC 以来、熱心なプログラマの自覚的な技術文化は、大なり小なり絶え間なく続いてきた。それがおもしろいからという理由で、ソフトをつくって遊ぶ人たちの文化である。

 「本物のプログラマ」たちは、ふつうは工学や物理畑の出身であった。白い靴下にポリエステルのシャツと、ネクタイと分厚いめがねを身にまとい、機械語やアセンブラや FORTRAN や、すでに忘れられた古代言語半ダースほどでコードを書いた。これがハッカー文化の先達であった。ハッカー文化前史の、ほとんど名もなき主役たちだ。

 第二次世界大戦末から 1970 年代初期まで、バッチ処理コンピューティングと「でっかい鋼鉄の」メインフレームの大いなる日々にあっては、「本物のプログラマ」たちが計算機世界の主要な技術文化だった。愛されしハッカー伝承のいくつかは、この時代からのものだ。たとえば有名なメルの物語(「Jargon File」に収録)、さまざまなマーフィーの法則の一覧表、そしていまだに多くの計算機室を彩っている、いんちきドイツ語による「Blinkenlights」ポスターなど。

 この「本物のプログラマ」文化で育った人々のうち、数人は 1990 年代になっても活躍を続けた。スーパーコンピュータの Cray シリーズを設計したシーモア・クレイは、自ら設計したコンピュータに、自ら設計した OS を、丸ごとトグルスイッチで入力したと伝えられる。八進数で。寸分たりとも過たずに。そしてそれが動いた。なんと雄々しき超弩級「本物のプログラマ」であることよ。

 もう少し軽い話として、スタン・ケリー=ブールは The Devil's DP Dictionary (McGraw-Hill, 1981) の著者として知られるとともに比類なき伝承語り部でもあるが、1948 年に Manchester Mark I のプログラミングを行っている。これは世界初の、ストアド・プログラムによる完動デジタル・コンピュータである。近年のかれは、コンピュータ雑誌に技術ユーモアコラムを執筆しているが、それはしばしば今日のハッカー文化との強烈かつ深い知識に裏打ちされた対話の形をとっている。

 デビッド・E・ルンドストルムら数名は、この草創期の口伝に基づく歴史をしたためている(A Few Good Men From UNIVAC, 1987)。

 しかしながら「本物のプログラマ」文化は、バッチ処理式計算機(特にバッチ処理の科学計算)ときわめて強く結びついていた。それがやがて影をひそめたのは、対話型コンピューティングや大学、そしてネットワークの台頭にともなってのこと。これらは、また別の絶え間なき工学的伝統を生み出した。そしてこれがやがて、今日のオープンソース・ハッカー文化へと発展をとげるのである。

(訳注:Real Programmer という表現は、Real Programmers Don't Use PASCALをベースにしているから、「本物のプログラマ」と訳すように、との指示を多方面よりいただいた。なるほどなるほど。そうそう、懐かしいね。あの文を忘れていたとはお恥ずかしい限り。早速なおしました。みなさま、ご指摘ありがとう。)

初期のハッカーたち


 こんにちわれわれの知るハッカー文化の発端は、まこと計算しやすいことに 1961 年、MIT が初の PDP-1 を購入した年であると言えよう。MIT の技術模型鉄道クラブ(TMRC)の信号・電力委員会は、このマシンをお気に入りのテクノオモチャとして受け入れ、プログラミング・ツールや俗語、そしてそれを取り巻く文化を丸ごと発明し、それはいまのわれわれにもそれとわかるものになっている。この草創期については、スティーブン・レヴィの著書「ハッカーズ」 (邦訳は工学社) 第一部において、検討が加えられている。

 MIT のコンピュータ文化は、「ハッカー」という用語を初めて採用したところらしい。TMRC のハッカーたちは、MITの人工知能研究所(AI 研)の核となった。ここは1980 年代初期まで、世界の AI 研究の最先端をゆく研究所であった。そしてかれらの影響は、ある年を境にさらにずっと拡大することとなる。1969 年、ARPANET 開始の年である。

 ARPANET は、初の大陸横断高速コンピュータネットワークであった。デジタル通信の実験として国防省がつくったものだったが、やがて成長して、何百もの大学や国防省の業者たちや研究所を結びつけるようになる。研究者たちはどこにいても、これまでにない速度と柔軟性で情報交換ができるようになり、共同作業が大きく促進されて、技術進歩の速度も密度もかつてない水準に達するようになったのである。

 でも、ARPANETが行ったことはほかにもある。その電子ハイウェイは、アメリカ中のハッカーたちを一つに集めて臨界量にもっていったことだった。孤立した小集団のまま、自分たちのはかないローカル文化を育てるのではなく、ハッカーたちは自分たちがネットワーク化された部族であることを発見(または再発明)したのであった。

 初の意図的なハッカー界の生産物——初の俗語一覧、初の風刺、ハッカー倫理に関する初の自覚的な議論——はすべて、初期の ARPANET で広まったものであった(その大きな例として、Jargon File の最初のバージョンは1973年にまでさかのぼる)。ハッカー界は、ネットにつながった大学で育った。特にその計算機科学学部において(ただしそこに限られたわけではない)。

 文化的には、すべて平等ななかでも MIT の AI 研が 1960 年代後半から筆頭となっていた。しかしながらスタンフォード大学の人工知能研(SAIL)や(後には)カーネギー・メロン大学(CMU)も、やがてそれに匹敵する地位に達した。そのすべてが、計算機科学と人工知能研究の中心として富み栄えていたのである。そのすべてが聡明なる人々を惹きつけ、かれらがハッカー界にすばらしきものたちを貢献した。技術的な水準でも、そして民間伝承のレベルでも。

 しかしながら、後におとずれる運命を理解するためには、コンピュータそのものを注目しなおしておく必要がある。なぜなら、研究所どもの勃興と、その後の没落は、いずれも計算機技術の変化の波によって突き動かされていたからだ。

 PDP-1 の日々以来、ハッカー界の命運は Digital Equipment Corporation の PDP シリーズのミニコンとともに織りなされてきたのである。DEC は商業対話型コンピューティングと時分割型オペレーティングシステムの先駆であった。そのマシンは柔軟で強力で、そして当時としては比較的安価であったため、多数の大学がそれを購入した。

 安価な TSS が、ハッカー文化を育てた媒体であり、そして ARPANET はその一生のほとんどの期間、もっぱら DEC マシンのネットワークであった。DEC マシンのなかで最も重要なのは、1967 年にリリースされた PDP-10 である。PDP-10 はほとんど 15 年にわたり、ハッカー界のお気に入りマシンでありつづけた。TOPS-10 (PDP-10 用の DEC の OS) と MACRO-10 (そのアセンブラ) は、数多くの俗語や伝承の中で、未だに郷愁をこめた愛着をもって記憶されている。

 MIT は、ほかのみんなと同じ PDP-10 を使っていたが、いささか異なる道をたどった。かれらは DEC の PDP-10 用ソフトを完全に拒否して、独自の OS をつくりあげた。これがその名も高き ITS である。

 ITS は、「Incompatible Timesharing System」(非互換時分割システム)の略だったが、これはかれらの態度を言い得て妙である。かれらは、自分たちのやりかたでいきたかったわけだ。万人にとって幸いなことに、MIT の人々は、その傲慢ぶりに匹敵するだけの知性をも持ち合わせていた。ITS はずっと、風変わりでエキセントリックで、ときにはバグも多かったとはいえ、すばらしい技術革新を多数備えており、そして時分割システムの中で連続使用の最長記録を保持しているとも言われる。

 ITS そのものはアセンブラで書かれていたが、多くの ITS プロジェクトは AI 用言語の LISP で書かれていた。LISP は当時のどの言語よりも強力かつ柔軟であった。実は LISP は、25 年たった今日なお、ほとんどのプログラミング言語よりもすぐれた設計となっている。LISP は ITS ハッカーたちを解放して、非凡かつ創造的な考え方をするようにした。かれらの成功は LISP に負うところも大きく、いまだにハッカー界御用達言語でありつづけている。

 ITS 文化が産み出した技術的創造物は、今日なお生き残っている。最も有名なものとしてはおそらく EMACS プログラムエディタが挙げられよう。そして ITS の伝承の多くは、ハッカーたちにとっていまでも「生きて」いる。これは Jargon File を見てもわかる。

 SAIL や CMU も、眠りこけていたわけではない。SAIL の PDP-10 のまわりで育ったハッカーらの幹部級は、後にパーソナルコンピュータ開発と、今日のウィンドウ・アイコン・マウスによるソフトインターフェース開発における主要人物となったのである。そして CMU のハッカーたちは、いずれ初の実用的な大規模エキスパートシステム利用や、産業用ロボットへとつながる作業に取り組んでいた。

 ハッカー文化のもう一つの重要な結節点は、通称 XEROX PARC 名高きパロアルト研究センターである。1970 年代初期から 1980 年代半ばまでの 10 年以上にわたり、PARC は新境地を開くハードやソフトの技術革新を、驚くほど大量に輩出せしめた。現代のマウス、ウィンドウ、アイコン式のソフトインターフェースもここで発明された。さらにはレーザプリンタやLANもそうだ。そしてPARC の D マシンシリーズは、1980 年代の強力なパーソナルコンピュータを 10 年前に先取りしていた。悲しいかな、これら預言者たちは、己の社内では栄誉を与えられることがなかった。あまりにそれが甚だしかったために、PARC を、その他万人のためにすばらしいアイデアを開発するのを特徴とする場所、と表現するのが、この世界では十八番のジョークとなったほどである。ハッカー界へのかれらの影響は、広範なものである。

 ARPANET と PDP-10 文化は、1970 年代を通じて強さとバラエティを増していった。大陸全体に広がる、特定の関心をもったグループ内の協力を支援するために作られた、電子メーリングリストの機能は、もっと社会的な目的や娯楽目的でますます使われるようになってきた。DARPA は意図的に、こうした技術的に「承認されていない」活動を大目に見ていた。このような余計なオーバーヘッドくらい、聡明な若者たちをまるまる一世代、コンピュータ分野に引き入れるためなら安いものだということを理解していたからだ。

 おそらくは、ARPANET の「社会的」なメーリングリストでいちばん有名なのは、SF ファンのための SF-LOVERS メーリングリストだろう。実は、ARPANET がやがて進化をとげた姿である巨大な「インターネット」上で、いまでもこのリストは健在である。しかし、ほかにもリストはいろいろあった。ここで先駆的に取り入れられた通信スタイルが、後に CompuServe、GEnie、Prodigy など営利目的の TSS によって商業化されることになるのである。



Unix の台頭


 しかしながら、その一方で、ニュージャージーの荒野のさなかでは 1969 年以来続いている動きがあり、これがやがては PDP-10 の伝統をも圧倒することとなる。ARPANET 誕生の年は、ケン・トンプソンなるベル研究所のハッカーが Unix を発明した年でもあったのだ。

 トンプソンは、Multics という TSS 用 OS の開発作業にたずさわっていた。この OS は、ITS と同じ先祖を共有している。Multics は、OS の複雑さを内部に隠して、ユーザはもとより、ほとんどのプログラマにも見えないようにする手法について、いくつか重要なアイデアの実験台となった。発想としては、Multics を外から使う(そしてそれ用にプログラムを書く!)ことをずっと簡単にして、本当の作業をもっとこなせるようにしようというものである。

 Multics がブクブクとふくれあがりだして、使いものにならないお飾りになる気配が出てきたので、ベル研はこのプロジェクトから手を引いた(システムは後に、ハネウェル社によって商業的に売り出されたのだが、成功はしなかった)。ケン・トンプソンは Multics 環境を懐かしく思い、そこからのアイデアと自分自身の思いつきのこたまぜを、廃棄処分から拾ってきた DEC PDP-7 上で実装しはじめたのである。

 デニス・リッチーなる別のハッカーが、トンプソンの生まれたての Unix 用に「C」と称する言語を発明した。Unix と同じく、C は心地よく、縛りが少なくて柔軟であるように設計されていた。ベル研では、これらのツールに対する関心が広まり、そして 1971 年に、トンプソン&リッチーが、そこでの社内利用向けに、今日ではオフィスオートメーション・システムと呼ばれるものをつくる入札に勝ったときに、一挙に拡大を見せた。だが、トンプソン&リッチーはもっと大きな見返りをねらっていたのである。

 従来は、OS はアセンブラでギチギチと書いて、ホストマシンから最高の効率をしぼりとるのが通例であった。トンプソンとリッチーは、ハードとコンパイラ技術が向上してきたために、OS そのものを C で書けるということに気がついた、最初の人々だった。そして1974年には、環境のすべてが、異なる数種類のマシンに見事移植されていた。

 これは前例のないできごとであり、それが持つ意味はすさまじかった。もし Unix が種々の異なるマシン上で、同じ顔、同じ能力を提供できるのであれば、そのすべてにとっての共通ソフトウェア環境として機能できることになる。もはやユーザは、マシンそのものが陳腐化しても、ソフトを一から設計し直すコストをかけなくてすむようになるのだ。ハッカーは、毎回火と車輪に相当するものを発明しなおさなくても、さまざまなマシン間でソフトツールキットを使い回すことができる。

 可搬性以外に、Unix と C には、ほかにも大事な強みを持っていた。 いずれも「Keep It Simple, Stupid」哲学に基づいてつくられていた。プログラマは(それ以前や以後の言語とはちがって)、C 全体の論理構造を丸ごとじゅうぶんに頭の中に入れておけたので、しょっちゅうマニュアルを参照したりする手間をかけずにすんだ。そして Unix は簡単なプログラムでできたツールキットとして構築されていて、それをお互いに組み合わせることでいろいろ便利に使えるようになっていた。

(訳注:Keep It Simple, Stupid、通称 KISS。「ごちゃごちゃ余計なものくっつけんじゃねーよ、バーカ」というのが正しい訳だけど、まあふつうは「単純なのがおよろしゅうございます」とか訳されるなあ。)

 この組み合わせは、非常に広範な計算機タスクに適用可能であることが示された。なかには、その設計者たちが予想すらしなかったような数多くのタスクにも。公式なサポートプログラムはまったくなかったにもかかわらず、それは AT&T 内で急速に広まった。1980 年までには、多数の大学や研究計算サイトに広まり、そして何千ものハッカーたちがそれを故郷として考えるようになっていた。

 初期の Unix 文化の馬車馬マシンは PDP-11 とその後継機、VAX であった。しかしながら Unix の可搬性のおかげで、Unix はほとんど変更なしに、ARPANET 上にあるもっと多種多様なマシンで動いたのである。そしてだれもアセンブラは使わなくなった。C はこれらのマシンすべてに、すぐに移植できたからだ。

 Unix は、独自のネットワーク方式、のようなものさえ持っていた——これが UUCP である。低速で信頼性も低いが、安価であった。Unix マシン同士であれば、ふつうの電話線越しに point-to-point で電子メールのやりとりができた。この機能はシステムに組み込まれており、オプションであとから追加するものではなかった。Unix サイトは、独自のネットワーク国家を形成し始め、そしてそれに伴うハッカー文化もつくられていった。1980 年には初の USENET サイトがニュースの交換を始め、やがてそれは巨大な分散型掲示板として、すぐに ARPANET より巨大なものとなる。

 ARPANET 自身にも、いくつか Unix サイトがあった。PDP-10 と Unix 文化はこうして縁のほうで出会い、混交しはじめたが、しかしはじめのうちはあまりうまく解け合わなかった。PDP-10 ハッカーたちは、どうも Unix 集団を駆け出しの烏合の衆と見なす傾向があり、LISP と ITS のバロックで美しい複雑さに比べると、お話にならないほど原始的なツールを使っているとして見下していた。「Stone knives and bearskins!」(石刃にクマの毛皮の原始人ども!)とかれらはつぶやいたものである。

 そしてさらに流れつつある第三の潮流があった。初のパーソナルコンピュータは 1975 年に売り出された。アップルは 1977 年に創設され、続く数年にはほとんど信じがたいほどの速度で、次々に長足の進歩をとげたのであった。マイクロコンピュータの可能性は明らかであり、これまた聡明な若きハッカーたちの新たな世代を惹きつけることとなる。かれらの言語は BASIC であり、それがあまりに原始的だったため、 PDP-10 党に Unix シンパたちのいずれも、それをして軽蔑する価値すらないものと考えていた。



古き日々の終わり


 1980 年代の状況とは、かようなものであった。3 つの文化が、縁のほうでは重なり合っていたものの、まったく異なる技術を核として組織されていたのである。ARPANET/PDP-10 文化は、LISP と MACRO と TOPS-10 と ITS とちぎりを結んでいた。Unix と C 軍団は、その PDP-11 や VAX 群やみすぼらしい電話線接続をふりかざす。そして初期のマイコン熱狂者たちのアナーキーな群衆が、必死でコンピュータの力を人民にもたらそうとしていた。

 この 3 者のうち、ITS 文化はまだ、発祥の地を誇ることができた。しかしながら、AI 研にも暗雲がたれこめつつあった。ITS の依存している PDP-10 技術はすでに老いつつあり、研究所そのものも、AI 技術を商業化しようとする最初の試みのため、小セクトに分割されてしまっていた。AI 研の(そして SAIL や CMU の) 最高の人材が、新興企業の高給職に籠絡されて去っていったのである。

 とどめの一撃は 1983 年にやってきた。DEC が PDP-10 の後続機をうち切り、PDP-11 と VAX シリーズに集中することを決定したのである。ITS にはもはや未来はなかった。移植性が考えられていないため、ITS を新しいハードウェアに移すのは、だれの手にも余る努力が必要となったためだ。このため、VAX 上で走る Unix のバークレー変種がハッキング用システムとしての寵愛を受けることとなり、また先見の明がいささかなりともある者であれば、マイクロコンピュータの能力がすさまじい成長をとげていて、いずれ行く手を阻むものは一掃されるということはすぐにわかったであろう。

 レヴィが「ハッカーズ」を書いたのは、この頃のことであった。レヴィの最大の情報源の一人となったのは、リチャード・M・ストールマン(EMACS の発明者)。MIT AI 研の頭領格の一人であり、AI 研技術の商業化に対してもっとも強烈に抵抗した人物である。

 ストールマン(ふつうはイニシャル兼ログイン名の RMS で知られる)はその後、フリーソフト財団を創設し、高品質フリーソフトづくりに身を捧げた。レヴィはかれを「最後の真のハッカー」とほめたたえたが、この表現はありがたいことに、正しくないことが証明されることとなる。

 ストールマンの壮大きわまる企図は、1980 年代初期にハッカー界が経験した転換をきれいに象徴している。1982 年、かれは Unix の完全なクローンの構築を開始した。これは C で書かれ、フリーで提供される。こうして、ITS の精神と伝統は、より新しい Unix と VAX 中心のハッカー文化の重要な一部として保存されることになった。

 さらに、マイクロチップと LAN 技術がハッカー界に大きな影響を与えるようになったのも、この頃のことだった。Ethernet とモトローラ 68000 マイクロチップは、潜在的に強力な組み合わせであり、新興企業がいくつかたちあがって、われわれがいまワークステーションと呼ぶものの第一世代をつくるようになった。

 1982 年に、スタンフォード大とカリフォルニア大学バークレー校の Unix ハッカー集団が Sun Microsystems を創設した。比較的低価格の 68000 系ハード上の Unix は、さまざまな用途にとって必勝コンビとなるという信念に基づいてのことである。かれらは正しく、そしてそのビジョンは一大産業のパターンを確立した。ほとんどの個人にはまだまだ手の届かない価格帯ではあったが、企業や大学にとって、ワークステーションは安いものだった。ワークステーションのネットワーク(一人一台)は、急速に古い VAX などの TSS システムを駆逐していった。



独占 Unix の時代


 1984 年、ベル電話会社が分割されて、Unix が初めて AT&Tのサポート商品になる頃には、ハッカー界のいちばん重要な断層は、インターネットと USENET を核とする(そしてほとんどはミニコン級かワークステーション級のマシンで Unix を使っている)比較的統合された「ネットワーク国家」と、マイクロコンピュータマニアたちの、広大な接続されざる後背地との間のものだった。

 Sun などが作ったワークステーション級のマシンは、ハッカーたちに新しい世界を解放した。ワークステーションは、高性能グラフィクス処理を行い、ネットワーク上で共有データをやりとりするように作られていた。1980 年代を通じ、ハッカー界はこうした機能を最大限に引き出すソフトやツールづくりに夢中になっていた。バークレー Unix は、ARPANET プロトコルのサポートを内蔵し、これでネットワーク問題が解決の糸口を見出して、インターネットのさらなる成長につながった。

 ワークステーションのグラフィクスをなんとかしようという試みはいくつかあった。結局栄えたのは、X Window Systemであった。その成功のカギとなった要因は、X の開発者たちはハッカー倫理にしたがって、ソースをフリーであげてしまい、それをインターネットで配布しても文句を言わなかったということである。独占グラフィックシステム(Sun 自身が提供したものも含め)に対する X の勝利は、ある変化の重要な予兆となるものであった。この変化こそ、数年後には Unix そのものに根本的な影響を与えることとなるのである。

 ITS/Unix の競合では、いまだに派閥的な小競り合いが時々見られた(ほとんどは元 ITSな人々の側から)。しかしながら、最後の ITS マシンが、1990 年に、永久にシャットダウンした。ITS狂信者たちはもはや足場を失って、ある者は声高に、ある者はぶつぶつと文句を言いつつも、やがてほとんどが Unix 文化に吸収されていった。

 ネットワーク化されたハッカー界そのものの中では、1980 年代に大きな競合が見られたのが、バークレー Unix ファンと AT&T 版 Unix のファンとの間でだった。ときどきいまでも当時からのポスターが散見される。映画「スター・ウォーズ」からの X 翼戦闘機のマンガ版が、AT&T ロゴのパターンを一面につけたデススターを爆破して脱出してくる絵が描かれたものだ。バークレーのハッカーたちは、自分たちが冷酷無情な企業帝国に対する反逆者たちだと考えるのがお気に入りだった。市場では、AT&T Unix は、BSD/Sun には結局追いつくことができなかったけれど、標準化戦争に勝ったのは AT&T だった。1990 年には、AT&T 版も BSD 版も見分けがつきにくくなってきた。どちらもお互いに、相手の技術革新を取り入れていったからである。

 1990 年代の幕開けと共に、80 年代のワークステーション技術は、インテル 386 チップとその後続チップをベースにした、もっと新しく、低コストで高性能なパーソナルコンピュータに脅かされているのが目に見えて明らかになってきていた。初めてハッカー個人として、10 年前のミニコンピュータに匹敵するパワーと容量を持ったホームマシンに手が届くようになったわけだ——つまり、完全な開発環境をサポートし、インターネットと話ができるだけの Unix エンジンが可能となったということである。

 MS-DOS 界は、このすべてに対し、おめでたいほどになにも知らないままだった。これら初期のマイクロコンピュータ・マニアたちは、確かに急速に拡大して、DOS や Mac ハッカーの人口は「ネットワーク国家」文化の数層倍にもふくれあがったものの、かれらは決して独自の自覚をもった文化とはならなかった。変化のスピードがあまりに速く、50 ものちがった技術文化が五月蠅く育っては消え、共通の内輪用語や伝承や神話的な歴史を作り出すのに必要な安定性に到達することは一度もなかった。UUCP や インターネットに匹敵する、真に広まったネットワークがなかったために、かれらが独自のネットワーク国家になることもできなかった。

 CompuServe や GEnie などの商業オンラインサービスへのアクセスは広範に広まって根付きだしてはいたものの、非 Unix OS は開発ツールがバンドルされていないために、こうしたネットワークにソースが出回ることはほとんどなかった。結果として、共同ハッキングの伝統も育たなかった。

 主流ハッカー界は、インターネットを中心に(無)組織化され、そしていまやほとんど Unix 技術文化と同一視されるようになっていたが、こうした商用サービスなどどうでもよかった。かれらは、もっと優れたツールと、インターネットをもっとほしがっていて、安価な 32 ビット PC は、そのどちらをも、万人の手の届くところにもたらすことを約束していたのである。

 しかしながらソフトはどこにあったか? 商業 Unix どもは高価であり、複数キロドルの価格帯であった。1990 年代初期には、数社が AT&T Unix や BSD Unix の移植版を PC に移植して売り出した。が、その成功は限られたものであり、価格もあまり下がらず、そして(最悪だったのは)OS には改変したり再配布したりできる、ソースコードが付属しなかったのである。伝統的なソフト商売は、ハッカーたちの求めるものを与えてくれはしなかった。

 それはフリーソフトウェア財団とて同じこと。RMS がかねてよりハッカーたちに約束せし、フリーの Unix カーネルであるHURD は何年も足踏み状態が続き、1996 年まで使いものになるカーネルもどきすら提供できなかった(が、1990 年までに、FSF は Unix 系 OS におけるカーネル以外のむずかしい部分を、ほとんどすべて提供し終えていたのではあるが)。

 さらにひどいことに、1990 年代初期になると、10 年に及ぶ独占 Unix 商業化の努力が失敗に終わることが明らかとなりつつあった。クロスプラットホーム可搬性という Unix の約束は、半ダースもの独占 Unix バージョンのいがみあいのなかで失われていった。独占 Unix のプレーヤーたちは、あまりに堅苦しく、あまりにものが見えず、あまりにマーケティング力に欠けていたため、マイクロソフトがその驚くほど技術的に劣ったウィンドウズ OS ごときでもって、かれらの市場の大部分をかすめとってしまったのだ。

 1993 年初頭、悪意ある傍観者であれば、Unix の物語はほぼ幕を閉じかけていて、それとともにハッカー部族の命運も尽きかけていると考える十分な理由があったともいえる。そしてコンピュータ業界誌には、悪意ある傍観者はいくらでもいた。その多くは、1970 年代末以来、6 ヶ月おきに Unix の死は間近という予想を、儀式のように繰り返してきたのだった。

 この時代には、個人ベースのテクノヒロイズムの時代は終わった、というのが通俗常識であった。ソフト産業や、台頭しつつあるインターネットは、ますますマイクロソフトのような巨大企業に支配されるようになるであろう、というわけだ。第一世代の Unix ハッカーたちは、すでに老い、疲れ果てているようだった(バークレーの計算機価格研究グループは力を失い、そして 1994 年には予算もつかなくなる)。気の滅入る時代であった。

 ありがたいことに、業界誌の目につかないところ、そしてほとんどのハッカーたちの目にすらとまらないところで、動きが生じていた。これが 1993 年後半から 1994 年にかけて、驚くほど有益な展開をもたらすことになる。やがて、これらがハッカー文化をまったく新しい方向へと導き、さらに夢にすら見たこともないような成功へと導くのである。



初期のフリー Unix たち


 HURD 失敗で残されたギャップに名乗りをあげたのが、リーヌス・トーヴァルズなるヘルシンキ大学の学生であった。1991 年にかれは、フリーソフト財団のツールキットを使って、386 マシン用のフリーな Unix カーネルを開発しはじめた。最初の段階で急速に成功をおさめたため、多くのインターネット・ハッカーたちがそれに惹かれ、かれが Linux を開発するのを手伝った。完全にフリーで再配布可能なソースを持った、機能制限のない Unix である。

 Linux に競合相手がなかったわけではない。1991 年、リーヌス・トーヴァルズの初期の実験とほぼ同時代に、ウィリアム&リン・ジョリッツが実験的に、BSD Unix のソースを 386 に移植していた。BSD 技術と Linus の粗雑な初期の試みとを比べていた傍観者たちは、PC 上の最も重要なフリー Unix は BSD の移植版となるであろうと予想していた。

 Linux の最も重要な特徴は、しかしながら、技術的なものではなく社会学的なものであった。Linux 開発以前は、OS ほど複雑なソフトは比較的小さくて緊密な集団によって、慎重に調整をはかりつつ開発をすすめなくてはならない、というのが通念であった。このモデルは、商業ソフトでもふつうだし、1980 年代にフリーソフト財団が築き上げた、大いなるフリーウェアの伽藍どもの場合でもそうだ。さらにジョリッツ夫妻のもとの 386BSD 移植から派生した、freeBSD / netBSD / OpenBSD プロジェクトなどもこれは当てはまった。

 Linux の進化は、まったくちがっていた。ほとんどことの発端から、それはインターネットのみを通じて協力しあう、無慮大数のボランティアたちによって、いささか勝手気ままにハックされつづけていったのである。品質を維持するのも、別に厳密な基準を設けたり、強権支配があったわけではなく、毎週リリースして、数日のうちに何百ものユーザからフィードバックを得るという、バカと言えるほどに単純な戦略に頼っていた。これで開発者たちが持ち込んだ突然変異に対し、一種の高速ダーウィン的選択がつくりだされたことになる。ほとんどだれもがあきれたことに、これがなかなかうまくいってしまったのである。

 1993 年末までに、Linux は多くの商業 Unix と、安定性や信頼性の面で張り合えるようになってきており、使えるソフトも激増していた。商業ソフトの移植すら行われるようになってきていた。この展開の間接的な影響として、小さめの独占 Unix ベンダーはほとんどつぶれてしまった——それを買う開発者やハッカーがいないため、かれらは店をたたむしかなかった。数少ない生き残りの一つ、BSDI (Berkeley Systems Design, Incorporated) は、その BSD 系 Unix の完全なソースを提供し、ハッカーコミュニティと緊密な関係を培うことで華開いたのである。

 こうした展開は、当時はハッカー文化内部でさえ、さして気にもとめられていなかったし、ましてその外では完全に無視されていた。ハッカー文化は、繰り返し行われるその滅亡の預言を裏切りつづけ、まさに商業ソフトウェアの世界を、自らの姿に似せて再構築しはじめたところだった。しかしながら、この潮流が目に見えてくるには、あと 5 年を待たねばならない。



Web の大爆発


 Linux の初期の成長は、別の現象と手を組むこととなった。これがインターネットの大衆による発見である。1990 年代初期には、民衆にインターネット接続を月数ドルで販売する、インターネットプロバイダ産業が華開き始めた時期でもあった。World-Wide Web の発明とともに、そうでなくとも急成長していたインターネットは、雪だるま式のすさまじい加速を見せる。

 1994 年、バークレーの Unix 開発グループが正式に幕を閉じた年には、いくつかのフリーUnix (Linux と 386BSD の子孫たち)がハッキング活動の主要な焦点となっていた。Linux は商業的に CD-ROM などで販売され、飛ぶように売れていた。1995 年末頃には、主要コンピュータ企業が、自社のソフトやハードがインターネット対応だとうたう、派手な広告をうつようになっていた!

 1990 年代の末には、ハッカー界の中心的な活動は Linux 開発とインターネットの主流化となった。World Wide Webによって、ついにインターネットはマスメディアとなり、1980 年代と1990 年代初期のハッカーたちの多くはインターネット・サービスプロバイダをたちあげ、大衆にインターネットアクセスを売ったり与えたりするようになった。

 インターネットの主流化は、ハッカー文化に主流世界からの敬意と政治的な勢力をすらもたらしはじめるようになった。1994 年と 1995 年に、ハッカーの政治活動によってクリッパー法案がつぶされた。これが成立すれば、強力な暗号は政府の支配下に置かれることとなってしまう法案である。1996 年には、ハッカーたちは広範な連合を組織して、名前に偽りのある「通信品位法案(Communication Decency Act)」、通称 CDA をうち破り、インターネット上での検閲を防いだのであった。

 対 CDA 戦の勝利とともに、歴史はいま現在のできごとへと引き継がれる。続くこの時代は、史家たる不肖このわたくしめが(われながらいささか驚いたことに)ただの傍観者ではなく、役者を勤める時代でもある。物語は「ハッカーの復讐」へと語りつがれることとなる。


すべての政府は、多かれ少なかれ人民に抗する組織力である(中略)そして支配する側が支配される側より徳において勝るわけもない(中略)政府の力を、その定められた領域の中に押しとどめておく唯一の手段は、それに匹敵する力を見せつけることだ。そしてその力とは、民衆の集合的な思いなのである。

    ——ベンジャミン・フランクリン・バーチ、フィラデルフィア・アウロラ紙社説より、1794 年



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>