過ぎていった人へ
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あっとん 2022/2
OBが若くしてなくなるのは残念なことだが、この歳になると、それもいくつもあって。あっとん追悼お茶会は Zoom ですね。facebook には結局出しませんでした。そもそもは、
お父さんが、息子がなにやっていたのかわからない
って話で... いや、この業界、自分も含めて、だいたいそうだろ... blog とか twitter とか
まったくの謎らしい。英語ですよねとか言ってる
いや、日本語なんですが。いや、日本語には見えないか。自分の blog と同じだからな。
大学で撮った写真は google photo で公開して、リンクを卒業生に投げるみたいなことをしてるんですが、
そこから写真を抜き出してスライドで。
スマホで撮ろうとするので「いや、リンク渡しますから...」
学生も
写真って、撮っておくの大切なんですね
とか言ってる。そういうつもりではないのだが、結果的にはそうなるってことね。
あっとんの東京の生活も、もちろん順調ではなかったらしいが、いや、
勝てたかもしれない
ところぐらいまではいったか。それもすんだことか。いや、しつこく追求する人もいるとは思うけど。
長田智和 2021/8
現役の先生が亡くなるのが続くのはなぁ。玉城史郎先生と同じで体調悪いのは知っていたんですが...博士課程に行くときから見ていて、システム関係、ネット関係とかもやってもらっていたので。
シス管ミーティングも自分がさぼり気味な時から、学生だけとか学生と自分でという感じになってて。
去年は自分とうちの学生でやることになったけど、割と大変だったな。
システム関係やってもらっていた時は確かに楽だったので、ありがたい先生でした。
長田さんは安定志向だが、自分は安定性とは別な方を取るので、去年から割とシステム飛ばしてるからなぁ。
停電とか機器故障とかもあるけど、自分はそういうの呼ぶ人なので。 玉城先生とあの面子で乗むのには何回か付き合ったけど。もっとも、
呑んでる量なら自分の方が多いとは思う
僕は一人でネーネーと乗んでる方でしたけどね。最近は飲みにいけないので残念。
割と野心のある人で OIX とか OIA とか楽しかったが... 道半ばということに。
母 2021/8/7
3月から施設へ。毎週LINE面談とかやってたんですが、7月に衰弱して病院へ。そこを退院して新宿へ。なので、様子を見に東京のホテルに滞在。8/2には新宿の施設でご挨拶できて「LINE面談できるくらいに回復すると良いですね」ということだったんですけどね。「いや、楽観はしないです」といったそばから急変。おそらく脳血栓。点滴とかすれば保つのでしょうけど、その意味もないから。長坂さんに結局12年一緒にいてもらいました。出棺(8/13)では泣いてくれて。同い年の友人みたいなものか。
最近はぼけてたし、クモ膜下出血から12年、ゆっくりお別れできた感じかも。
義父逝去 門脇宏 2021/6/6
義父逝去は二回目だったりしますが。2008年から夫婦で沖縄に来てました。85歳。隠居生活ですね。身内ですが少し自分には遠い感じなので逝去。昔はそこそこ大きな印刷会社を廻していたらしく、新宿で遊び歩いていたらしい。ゴルフとか。そういう世代だな。土日なのは医者のさじかげんという気もしなくはないですが、誤嚥性肺炎から血圧低下ということなので老衰でしょう。少し早い気もするけど、若い頃遊んだ男性はそんなものもかも知れないです。天寿で、ちゃんと看取ってもらった感じです。コロナ下の状況ですが、会うことはできました。でも会話できる感じではなかったけど。最後に話したのは去年の10月だった。その時には普通に元気だったのだけど。立てなくなって入院はここ数か月。立派な最期だと思いました。お墓は前田のワカリジーのそば。眺めの良いところだな。納骨は火曜日なようです。
永山辰巳 2021/6/6
共同研究してたが、あまり芽はでなかった。いや、そこそこ行ったけど出るかどうかは運不運だから。2016が会った最後だったかも。 ガンの再発で1年だったらしい。Sony CSLメンバ。日産のWeb羅針盤をやってたが、ゴーン氏のあれで。作ったのは WebObject base のTHinKSとかKnowledge Lineとか。そこで独立して Symphonies 社に。自分と縁が切れたあとは再びSony CSL関係の仕事をしていたらしい。
THinKSは割と面白かったんだが、Scaleしなくてぽしゃった。そこを手伝ってたはずなんだけどね。
なんか情報隠蔽モードらしく...
玉城史朗 2020/7/14
珍しくメール読んだら、いきなり。玉城史朗先生は自分より1年早い赴任だったんじゃないかな。最初のシステム更新を一緒にやったのを思い出します。数年前に身体を壊してたのは知ってたんですが、大学で会う時には元気そうだったのに。聞くところによると最近は入退院を繰り返していたらしく。
最近は農業のIT化みたいなのをやってて苺の二酸化炭素の制御とか、山羊にセンサ付けたりとか。最初の頃は太陽電池とか風力発電とか。
割と地元の企業と一緒にみたいなのが好きだったみたい。農家は毎日来い的にこきつかうの学生には不評だったみたいです。
酒飲みですが、割と居酒屋で飲む感じ。Mou でも何回か見かけました。身体壊してても飲む的な。僕も酒のみだから気持ちはわかる。
今年退官だったはずですが、学生の面倒見は良い先生だったので残念です。
割と板書な先生。情報数学の授業はもう少しレベルをあげて欲しかったが、うちの学生にはちょうど良いくらいか。
告別式は北那覇でしたが、地元に密着した先生で三線弾いたりしてたのでたくさんの参列者が。全員マスクで。さらに
Twitter の #forever_t_shiro
Zoom online 告別式
も。好きだった We are the champion も流れたらしい。
本田耕平 2012/12/2
Sony CSL 関連の訃報を聞くのは残念なこと。あそこの人は生き急ぎ過ぎなのか。僕がSony CSL にいた時に、既に就職していた彼が Sony CSL に来て自分で作ったプログラム言語を当時のEPSON 286のノートPCでデモンストレーションしてくれたのが最初でした。一発で面白い人だと思った。でも、CSLには参加せずに、慶応の大学院へ。少し回り道だったが、結果的に正しかった。
そこで、π計算のレクチャーを聞き、当時一緒だった佐藤一郎氏とかと一緒に勉強することに。僕は一緒に慶応で勉強会した記憶があります。その翌年には独自のオブジェクト指向なプロセス代数を作っていました。そのまま英国に行ってしまいました。まさか異国の地でなくなるとは。
温和な人だが、情熱がある。ろうそくの炎のような感じの才能だった。人の論文や話を良く聞き、理解してくれる人でした。それだけに周りの影響を受けやすい人だった。だからこそ、エジンバラの環境が良かったのだと思います。
π計算の先にあるものが何かは僕はあまり良く見えなかったが、彼は、そこに計算の本質と、正しいプログラミングの未来を見ていたと思います。
最後にあったのは、2004年のVenisだったらしい。良い人から亡くなっていく。おしいことです。
脳卒中は割と年齢関係しない。脳の血管の奇形とかがきっかけになったり。今はカテーテル手術とかがあるので場所によっては助かるのですが。母のくも膜下出血と同じで一度MRIとか取ってみると良いです。(特に酒飲みね)
itojun 萩野純一郎 2007/10/29
10/20 に会ったばっかりだったのに。37歳。3月には、琉大で授業を持ってもらいました。http://tinyurl.com/yvg4nt9月にはSF World Conference にさそってもらいました。
誰もが認める日本を代表するハッカーですが、本人には少し重荷だったか? 日本で英語が出来るハッカーってのは、珍しいし。
欝だと言うのは知ってましたが、天才には付き物みたいなものだ。彼を受け入れられる余地がないような社会には絶望しますが... 危ないってのがわかっていても、結局、何も出来なかった。
地球にいる一人一人が直接継れる世界をIP/IPv6 は目指していたのだと思う。僕は、それを目指す。たった一人、置いていかれたとしても。
渡嘉敷 浩樹 2003/02/8
カナダに留学中スキーにいく途中の交通事故で死亡。31歳。奥さんが生き残ったのが不幸中の幸いか。カナダと沖縄で両方の葬式。ロボットの公開講座とか沖縄の人には珍しくモティベーションの高い人だった。福岡生まれだったからか? お父さんも大学教授で、そういう家系の人だったのかも知れない。
優秀な人だったので、とっても残念。お母さんが「こんなにあっけないものなのか?」と言っていたが、人の一生なんて、本当に儚いものだ。
少し世代差があるのか、僕がそういうようになっているのか、割りと付き合いは浅かった感じ。その意味でももったいなかった。儚いものだけに人と人との付き合いを大切にしよう。つまらない人よりも面白い人との時間を作るようにしたい。そして、自分も人に時間を割いてもらう価値を持つようにしなくては。
比嘉 涼次 2000/08/22
琉球大学の卒業生。東京に行って3ヵ月で通勤時の交通事故で死亡。24歳は若すぎる。謝恩会で見たのが最後か。情報工学3年のPlayStationの実験で、はじめてあった気がする。あまり授業にでない奴だったのかも知れない。ゲームの同人ソフトを作っていたようで、PlayStation グループの立ち上げに大きな働きをしてくれた。今でも彼の作ったライブラリを使って学生がプログラムしている。
Direct-X でプロトタイプを作ってから、PlayStation 側に持って行くという手法が面白かった。また、比較的劣悪な開発環境でも、あまり苦にしてないようなところがあった。外に見せないだけだったのかも知れないが。技術を自分の中にとどめておくというよりは、公開していく姿勢があるのは、同人ソフトに関わったからかも知れない。
ゲームの独創性などでは、少し物足りないところはあったが、情報収集と実装力では、琉大生の中ではずば抜けていただけに残念だ。無口でクールな感じ。もう少し一緒に仕事をしてみたかった。
渡 滋 1999/07/26
大学教授。大学院で一緒だったのだが、ソニーCSLで一緒になるまでは面識はなかった。今から考えるともったいなかった。日系ブラジル人だけど、彼は日本人と言う意識はあまりなかったようだ。ブラジルに帰った直後に、凶弾に倒れてしまった。CIA 陰謀説とかが出るあたりが彼らしい。42歳のはず。どちらかといえば哲学的な思考をする人で、オープンな生き方をする人だった。彼の周りには僕を含めていろんな人が集まっていた。もっと歳を取ると面白くなるような感じがするやつだった。
京都であったのが最後だったのだが、なんとなく、最後に抱きあって別れたのは予感だったのか...
ブラジルに残された奥さんと子どもを見守っていきたい。
津野孝之 1998/08/22
同僚ではないがソニーの人。ソニーのDV カメラなどに関わっていたらしい。蜘蛛膜下出血。自宅のアパートで就寝中に亡くなった。その前の6月に一緒に台湾に行ったばかりだったのに。ロータス・エランを愛した人。漢粋で、食事した時が一番楽しそうだった。彼がいないと食事会は、盛り上がりに欠けるかも知れない。彼の死を聞いたときに、生きている間に好きなことをした方が良いと思った記憶がある。誰でも考えることか。
父 1995/04/07
当時のメールより父(河野克己)は家具工場(本人は日本一のテーブル専門工場だともうしておりました) をたたんだ後、脳硬塞を患い都立大塚病院に通院しておりました。幸い、脳硬塞の後遺症は軽く、車の運転はできませんが、ゴルフや絵画などを楽しむ生活を続けていました。昨年、2月に胃癌が大塚病院にて発見され3月に手術いたしました。直る癌だといわれてましたし、実際その後、順調に回復し、ゴルフなどもできるようになっていたのですが、2月に再発し、一ヵ月の再入院の後、4月7日午後2:43分に大塚病院にて亡くなりました。66歳でした。癌にもかかわらず、ほとんど痛みもなく軽眠状態から徐々に呼吸が弱くなるという安らかな臨終でした。
脳硬塞などはニコチン、胃癌は食生活などが原因になことが多いようです。みなさまも、健康にはご注意願います。脳硬塞などでは楽しみも減ってしまいます。また、胃癌の進行は驚く程、速いものですから、癌検診などを活用してくださいね。
(亡くなった夜に雨、葬式の時に桜が満開だったのを思い出す)