学位や職歴ではない、強く印象の残っている思い出のイベント歴

和田 知久

高校時代

ひょんなことで、執行部クラブ委員長を務め、外交性が開花する。

大学時代

YMCAでのキャンプリーダーのボランティアを4年間やり、人前でアホなことができるようになる。
4年次の企業見学旅行中の宴会で、酒飲み大会で優勝したが、次の日の日産自動車の見学では、自分だけが日産の保健室を見学した。Meeting中に日産でゲロを吐いたのは俺だけか?
修士入学の試験の1日目受け、2日目を受験せず、社会人を選択する。(金を払って、学校で働くことより、金をもらう方を選択した。)

三菱電機
会社生活
初期

新人研修の配属前打ち上げの宴会で、ビールのかけあいで大暴れし、配属前にすでに有名人になる。勝手に、大和田なるあだ名を先輩連中につけられる。
実際のあだ名は「和田金」であったが、当初は「和田菌」といってるやつもいた。
配属の初日に、いきなりカジュアルな服装で出社し、5時に私用電話をして、怒られる。
IEEE ISSCCなる半導体の最高権威の学会に三菱電機最年少で論文採択される。(良いこともやってます。)
翌年も連続で、IEEE ISSCCに論文採択される。当時の課長に上トロを腹一杯食べさせてもらって、がんばった結果である。
T型ビット線を用いるメモリ設計特許を考案し、現在でも三菱の低消費SRAMやキャッシュメモリ等で使用されている。(あまり、特許報酬で儲かった記憶はないが。。。)
大阪市北区中津に在住中に、マンション横に計画される高速道路の反対運動で、ポスター等の製作をコンピュータで行い運動に協力。大阪府知事室(当時はノックさんではない)へも要請に行く。

Stanford大
マスタコース留学期

ハンバーガを買うことにも苦労し、アメリカでの生活の違いにカルチャーショックを受ける。(英語も下手だが、習慣の違いにえらい苦労する。)
毎週1科目あたりの宿題に12時間以上を必要とされる、米国マスターコースの苦労を体験し、ヘトヘトになりながら、アメリカ生活をENJOYする。苦労のあとの開放(休み)で金を使いまくる。(ヨセミテ、フロリダ、イエロストーン、カナダなど行きまくる。)
キャッシュメモリ関連の授業のプロジェクトの結果をIEEEの論文に投稿し、採択される。
授業の1単位として、ゴルフを取り、持ち前の力の爆発でたまたま凄いショットを教官の前で打ち、誉められる。内心、本番に強い性格と確信する。
45単位で卒業のところ、結果的に70単位ほど取れて、修了に成功する。
グランドキャニオンの北に位置するブライスキャニオンに家族で出かけた時、家内がレストランで気を失って救急車で運ばれるトラブル発生し、米国でのトラブルに対して耐性ができる。
(レストランにて、I need doctor! を連発し、隣人がたまたま医者で、I am doctor! と言っていたが、動転して気づかず、I need doctor! I am doctor! I need doctor! I am doctor! I need doctor! I am doctor! の会話を繰り返す。)
結局は4人目の妊娠でした。。。

三菱電機
会社生活
後期

インテル社とのプロジェクトの技術リーダーを務めていたおり、一人でオレゴンのIntelに残され、日本のゴールデンウイーク中の部長の自宅へ早朝に電話して、迷惑がられる。(しかし、俺は働いている。)
ユタ州のエバンス&サザランド社にASIC設計のために駐在している時に、火災訓練があり、米国の非常ベルの音が日本とは違って、警報に聞こえず、トイレに長居して逃げ遅れる。
会社の全社公募のプロジェクトに対して、憤りを感じ、最初まじめな意見書を出すが、その回答で益々憤りが増大し、アルコールの力を借りて大阪弁のぼろくその意見書を社長を含めて提出する。後に、常務から「もうやめよう!」の回答をもらい、意見書の内容は良いが、不真面目な面を研究所の所長室に呼び出されて、怒られる。
これを自分では「若気のいたり」と呼んでいる。
米国AMD社のAthronマイクロプロセッサに対して、キャッシュメモリを供給した時に、テキサス/オースチンの開発チームを訪問し感激し、夜にへんなバーに連れて行かてEnjoyする。
98年のISSCCでサブチェアマンとして司会をした折に、最後の発表者のQ&Aにて壇上の机や水入れを会場に蹴り落とし、一瞬騒然とはなったが、平然とQ&Aを続け、その場を乗り切る。
後で、何故かNECの人に誉められる。また、蹴り落とした物を片付ける日本人知り合いの姿を見て、「つくづく日本人の特性を感じる」。
99年のISSCCで発表中にスライド装置が故障し、5分ほど中断したが、肝っ玉で平静を保ち難を逃れる。(トラブルにつよくなったなあ。。。)
子供の小学校のPTA会長を2期つとめ、年代を超えた付き合いを学ぶ。普段のようにしゃべる挨拶やスピーチを実行し、「わだブシ」と命名される。
三菱を円満退職し、仕事を変えることの意味や大切さを学ぶ。(人間色々やって、苦労して、考えることが、成長につながる!)
〇小さい頃から未来のわかるようなことをする習慣をつけられている。だから、無理をしない人生になりがちだ。現実には、困難に直面すれな、予想できなかった火事場の馬鹿力や、他人の応援などで道は開ける。

琉大
教官生活期

会社での経験を生かして、新しいことに取り組みはじめる!
2000年3月、日本シノプシス社の協力を得て、HDLデザインコンテストを全国学生参加に規模を広げ開催する。年代の違う学生らのコンテストは学部生にとっても、修士学生にとっても刺激のあるものである。
2001年3月、HDLデザインコンテストを国際化し、韓国学生、ベトナム学生、台湾・韓国教官の参加も頂いて開催。アジアでの連携が今後のアジアの発展に必要と感じる。
大容量通信システムや設計IP販売等を事業とする(株)マグナデザインネット社の創業メンバーとしてかかわり、
チーフサイエンティストとして多忙な毎日を送る。ベンチャーの意味を考え、ベンチャーの強さを作るための努力の毎日である。