誇りある元気な日本人になるために!

和田が歴史に興味を持ち始めるきっかけとなった、渡部昇一先生の講演

「歴史に学ぶ日本の心」を紹介させて頂きます。

渡部昇一先生

上智大学名誉教授

昭和5年山形県生まれ。

30年上智大学文学部大学院修士課程修了。

ドイツ・ミュンスター大学、

イギリス・オックスフォード大学留学。

Dr.phil.,Dr.phil.h.c.

昭和60(1985)年 第一回「正論」大賞受賞

平成13年から上智大学名誉教授

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渡部昇一先生 「歴史に学ぶ日本の心」 第8回全国生涯学習フェスティバル福岡’96

 

1.古代日本が、大陸の大文明に対して誇れるものとは

 日本の最古の書物は8世紀頃の古事記、日本書紀である。そこにある最も古い記録では、日本人は日本が島国であることを知っていた。すなわち、九州が島というだけでなく本州も島であり、北は津軽半島も知っていたようだ。青森で、三内丸山遺跡で縄文時代の遺跡も発掘されている。本州が島という概念を知っていたということは、その外側に大陸があることも知っていたと思われる。紀元前の中国古代王朝周は、黄河に花開いた文明であり素晴らしい大文明で栄えた。その時、周辺の国々はどのように対応できたであろうか?

 一つの目方法は、その大文明の一部になることであり、これは現在の南北朝鮮KOREAが選んだ道である。というのも、朝鮮半島は陸続きであり独立した文化の維持は困難であった。二つ目の方法は、なんとか独立した文明を維持する方法であり、これは日本がとった道である。朝鮮半島と日本の間には玄海灘があり、当時とすれば文明的に独立を保ち、アイデンティティを確立することができた。

 万葉集の歌人 山上憶良は子供時代にKOREAにいて、その後日本に引き揚げた引揚者と思われる。高句麗好太王碑文によれば、西暦400年頃に今の北朝鮮のピョンヤンまで倭(日本)が占領していたようであり、当時沢山の日本人が朝鮮半島に渡っていたようである。その後、663年白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れ、日本に引き揚げてきた。山上憶良も引揚者と思われる。日本に帰化したチェジュ島出身の韓国人呉 善花(お そんふぁ)も同様のことを彼女の著書「攘夷の韓国 開国の日本」で書いている。また、山上憶良は万葉の大歌人でもあるので、日本人ではなかったとは考えにくい。

 その山上憶良の歌に以下がある。

 

「神代(かみよ)より言ひて伝(つ)て来(け)らく そらみつ 大和(やまと)の国は 皇神(すめらぎ)の厳(いつく)しき国 言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国と 語り継(つ)ぎ 言(い)ひ継がひけり」とある。 

 

 意味:ここで山上憶良は日本の特徴を「皇神(すめらぎ)の厳(いつく)しき国」すなわち王朝が神代から変わらない国であるといい、また「言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国」すなわち言葉に対する信仰があると述べている。

 

 日本は皇室が万世一系でちゃんと続いた歴史ある国である。大陸の文明は高いが、中国大陸では統治者は変わっており姓名が変化している。日本は文明では劣るが、長く歴史のある系図が一つの皇室に誇りを持った。

 また、日本は言葉が尊い国と述べている。KOREAでは大陸に文明が呑み込まれ、人の名字も大陸風になってしまった。オリジナルな国語はなく、上流階級は漢文を用いた。したがって、朝鮮国語の文学はなく、漢文文学詩は存在した。これは、圧倒的な文明がやってきたからである。足利時代には、朝鮮はひらがなのようなハングルを作ったがこれは漢字を使わない人向けに作られた。

 日本の方では、漢字を表音記号として用いた。すなわち、日本語を漢字で書いて表した。この日本語は大和言葉である。したがって、大和言葉は残った。すなわち、日本人の2つ胸を張れるものは、「連綿と続く皇室」と「日本独自の大和言葉文学」であった。

 

2. 大陸からの伝来仏教を取り入れ、こちらが本家になり、そして古来の神と融合させた

 6世紀半ばの欽明天皇期、百済から倭(古代日本)への仏教が伝来した。「論語」も伝来したが、常識的な話で参考になる本ではあったが、影響の大きいのは仏教であった。仏教には山のような蔵一杯のお経がやってきて、その中には文学、神学、哲学も含まれていた。日本は当時、偶像崇拝ではなく八百万の神を崇拝していた。しかし結局、仏教も日本に入れることとなった。当時、仏教の本拠地は唐天竺(中国とインドのこと)であることを知っていたが、古い日本人は仏教でも日本が本家になろうと考えた。そして、奈良の大仏を作った。唐天竺にもない銅の巨大大仏を作って、見た目では、本家を超えようとした。8世紀の奈良東大寺も当時世界最古の巨大建物であり、目に見える形では仏教を伝えた国となり、劣等感はなくなった。教えの方も、弘法大師は大陸に渡り密教を受け継ぎ、日本を本家にした。

 もともと日本には八百万の神々がいたが、仏教との整合性をどうしたのでしょうか? 自分の親や祖先は八百万の神々を信仰していたのに、私から仏教に変えることは親孝行の人は必ず悩むことである。先祖代々の神の信仰をどうしたらよいのか? 仏教に真理があれば、それは真理であるので、場所に関係なく現れるはずである。インド仏教では如来様であったが、日本では日本の神々として現れたはずと考えたのである。真理があるのであれば、公平であるべきであり、インド仏教でのお釈迦様、如来様は日本では、現れ方が文化や成熟度によって違う形で現れると考えた。すなわち、インド仏教での大日如来は、日本での天照大御神であり、インド仏教での阿弥陀様は、日本では八幡さまと考え、神でも仏でもどちらを拝んでもよいと考えるようになった。日本では、神仏と言うのはこのためである。

 日本では約1500年前に、このような説明をして、また日本人はこのような考えを持つに至った。したがって、日本の島は、八百万の神の島すなわち神州とも言えるし、仏土とも言えることとなった。鎌倉時代の西行は全国各地を行脚する生涯を送り、和歌を沢山作った。仏教的な歌ではなく、日本の景色を歌った歌を多数詠んでいる。これは、日本は仏土であるから心を込めて景色の歌を詠めば、仏教の念仏と同じと考えたからである。芭蕉は奥の細道を西行の500年記念として行った。芭蕉は八幡宮の神体は阿弥陀様で、これはありがたいことと考えていた。神と仏は同じと考えていた。このような心が日本人の心の奥にある。

 

3. 中世のキリスト教の改宗への苦労

 江戸時代に時の幕府の実力者で儒学者の新井白石は、宣教師のシドッチを取り調べた。白石は、シドッチの知識の豊富さに大変驚いた。シドッチはヨーロッパから地球を半分回って日本に来たのだから当たり前のことであった。シドッチはカトリックキリスト教宣教師であるが、白石は宗教キリスト教の話になると疑問を持ち、馬鹿かと思った。シドッチは「全知、全能、全愛の神」と主張した。白石は全知全能ならば、何故今頃来たのだ?と聞いた。1000年前になぜ来ないのだ? という質問でシドッチは参ってしまった。全知全能であれば、今頃来るのは不公平だからだ。

 ヨーロッパのゲルマン人も同じことを思った。ゲルマン人がキリスト教に改宗したのに、面白い話がある。宣教師ゴルバチフスのキリスト教の教えを良いものだと思ったアラットフォードは、教会を建てるなどの協力をした。洗礼を受ける前にふと考えた。「はて、自分は洗礼を受けると天国に行けるが、自分の父や先祖はどうなったのか?」そして、その質問をゴルバチフスに尋ねてみた。ゴルバチフスは率直な人なので、「洗礼を受けないと救われないという教えなので、父や先祖は天国には行っていない」と答えた。それを聞いたアラットフォードは大変怒り、キリスト教は一旦パーになってしまった。これは親孝行の人なら当たり前の話で、尊敬する親や祖先と同じところに行くと思ったわけです。

それを聞いた当時のローマ法王グレゴリウス1世はその疑問は当たり前だと言った。そして、「煉獄(れんごく):キリスト教、カトリック教会の教義で、天国には行けないが、地獄に墜ちるほどでもなかった死者が清めを受ける場所のこと」を考えた。洗礼前のりっぱな人は煉獄に行っていると考えた。そして、子孫が洗礼を受けると、煉獄にいる先祖は天国に行くということにした。中世のキリスト教の話は煉獄ばかりだそうです。しかし、新約聖書には煉獄のことは載っていない。

 

4. 日本人の3つの誇りと帝と王の違い

 話は戻りますが、日本では唐天竺という大文明に対しても劣等感はなくなり、皇室の系図が一番古いこと、言葉・和歌の存在にも誇りを持っていた。和歌はすべて大和言葉でできている。百人一首もそうである。大和言葉でないのは、2つしかなく、一つは「菊」で音読みしか存在しない。山であれば、音読みはサンで、訓読みはやまであるが、菊はキクしか読み方がない。もう一つは「衛士」で護衛兵士である。これらは間違って大和言葉として使われている。繰り返すが、万葉集の言葉がすべて大和言葉でした。

まとめますと、以下の3点が日本人の特徴で、誇りに思っていたことでした。

@仏教も本家を日本に作り劣等感なくなる(外から取り入れ、マスターし本家を作る)。

A皇室は世界で一番古い。

B日本語、大和言葉に自信を持っている。

 話は変わりますが、聖徳太子が隋の皇帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」すなわち、東の皇帝から西の皇帝に書をいたすと書いたのは有名である。隋の皇帝は天下に一人と思っているところに、東の島から「俺も皇帝だ」という手紙が来たので、当然喜ばなかったわけです。KOREAでは、自分のことを皇帝と言ったのは日清戦争後までいなかった。みな王であり、王は帝の下で、帝の子が王である。中国の周りの蛮族はみな王であった。琉球ももちろん王であった。

 日本だけがいつも帝と言っているので、公式的に中国とは相いれなかった。天に二人の皇帝があってはいけないのです。遣唐使を菅原道真がやめてから、正式の国交は日清戦争のころまでなかった。しかし、日本の国土は肥沃であり、まわりの海から魚も十分捕れたので、日本はそれでやってこられた。ところが、16世紀にポルトガル人が鉄砲を持ってきた。当時はたまたま戦国時代であり、日本人はその鉄砲を作ってしまう。真似がうまく、改良がうまく、大量生産が上手だったので、たちまち鉄砲の数はヨーロッパを超えることになった。

 日本人は、外のどんな大文明があろうともたちまちマスターして追いついて追い越してしまう人達であり、これが当たり前であった。当時、何万丁の鉄砲を打ち合う戦をしていたが、この規模はヨーロッパにはなく、当時の日本は世界一強かった。しかし、その後徳川幕府は鎖国をして、国内のテクノロジーの進歩を止めてしまった。鉄砲の改良などは物騒であり無理やりやめさせた。280年間進歩を止めてしまったのである。

 

5. アパルトヘイトが22~23世紀まで続いたと推定してもよかった、日本人さえいなければ

 280年の鎖国の後、黒船がやってきた。当時の白人文明は、悪質どう猛であった。日進月歩の自然科学を発見したのが、白人文明であった。ニュートン(万有引力)、ライプニッツ(微分積分)、ナポレオン(フランス軍人)、ネルソン(イギリス海軍)などが出てきて、産業革命がおこり、進化論も科学として成立した。その時の白人が日本を見ると圧倒的な差があった。白人文明は他の文明に対して圧倒的な差があった。コペルニクス、ガリレオ(地動説)の時代には白人文明とインド・シナには大きな差がなかったが。しかし、600年がたち、自然科学がテクノロジーとして改良され、19世紀後半になると、他の文明は5−600年前の文明であり、白人と有色人種の差がとても大きくなり、どんなことをしても乗り超えられないと白人は思ったし、有色人種も白人にはかなわないと思うに至りました。これが、19世紀から20世紀の世界の状況だった。

 当時、自然科学や近代産業は目の青い白人でないとできないとみな思ったわけです。白人もそう思い、有色人種もあきらめ、世界中がアパルトヘイトになりました。アパルトヘイトとは白人がご主人様で、有色人種は召使か奴隷という制度です。20世紀はアパルトヘイトの時代で、21世紀もおそらく続き、22から23世紀まで続いたと推定してもよかった、ただ、日本人さえいなかったらということです。

 日本人がいたということは白人にとってはこの世の終わり。日本人がいなければ、もう数百年間19世紀のままだった。もしも日本人がそんな民族と知っていたら、ペリーも来なかったかも知れないし、鎖国を解けとも言わなかったかも知れません。日本人は鎖国中も、オランダより中国のアヘン戦争など世界のことを知っていました。しかし、鎖国で国内のテクノロジーの進歩は止まっていたので、「さあ、大変だ!」ということになったわけです。鎖国を始めた頃の日本は、どこのヨーロッパの国より強かったので、鎖国をやめさせるものはいなかった。ところが、280年間ヨーロッパは進歩してしまった。そして、明治維新が起きた。その時、世界中が白人の植民地になっていた。シナの一部が取られ、朝鮮はシナの子分、日本は「さあどうする」ということになった。

 

6. 黒船以降の国難に対して、日本人が取った行動とは

 明治維新では、まず王政復古すなわち、万世一系の天皇政を復活させた。徳川家を前に出しても、たいしたことはなく200年程度の歴史に過ぎない、イギリス王朝は250年の歴史があった。しかし、皇室の歴史はその10倍であり、日本が最も古い。明治・大正の人達は皇室を特に大切にした。これしか世界に誇れるものがなかったからだ。外部と接する前には、皇室はまあ意識の外であり、徳川家の方が重要であったでしょうが、国難の時には山上憶良の「すめろぎの美しい国」が出てくる。

 また、日本語には絶対の自信をもっていたので、世界のテクノロジーや文明を日本語に訳しましたし、現在でも訳し続けている。共産党という言葉も日本語の訳から来ている。共産主義という言葉も日本が作った。国語には絶対の自信がある。

 また、「外部の物を取り入れ、追い越せ」ということで、当時奈良の大仏を作ったように、戦艦大和まで作ってしまった。そういう意味では、日本人の発想は変わっていない。優秀な人を、敵味方を問わず留学させた。あらゆる分野を極めさせた。これは、日本人にとっては自然なことで、外には素晴らしいものがあるので、取り入れることもマスターすることもできるというのが、日本人の発想である。

 19世紀後半で、欧米の近代産業を真似できると「発明」したのは日本人だけである。圧倒的な白人文明を有色人種は真似できないと思っていた。シナ人も優秀だが、真似をしなかった。時計、こうもり傘、マッチも真似しなかった。日本人は、新しい物好きであり、こうもり傘をドンドン輸入するが、4-5年すると輸出し始めるので、日本人は嫌がられた。

 20世紀初頭には、日本は欧米にほぼ追いついた。1901年にノーベル賞に北里柴三郎博士はノミネートされたが、ドイツ医学界はトムベーリングを押し込んだ。トムベーリングは北里博士の追試のような研究であったが、人種問題で賞を取れなかった。自然科学でノーベル賞を有色人種が取ったのは第2次世界大戦後である。それまでは暗黙の了解があったと推定しています。

 

7. 時代の転換点日露戦争後のアジア

 日本にとっての歴史的大転換は、1904−05年の日露戦争であった。陸上での戦いは、それまでの人類の歴史の中での最大の戦いで、70万人が戦った。ロシアバルチック艦隊との日本海海戦もそれまでの人類のやった最大の戦いであった。そして、日本はこれらに完璧に勝利をした。これが、アパルトヘイトの終わりの始まりであった。この戦争ほど、歴史の大きなターニングポイントはなかった。当時のロシア(ソ連)は世界最大の陸軍を持っていた。ドイツのビスマルクもロシアとは戦わないことを決めていた。

 第1次世界大戦が終わるまでは、戦争をする能力で、その国の国民の質、団結力、政治力、軍事力、産業力、組織力を測っていた。一流国とは戦争の強い国、2流国とは、戦争がそれほど強くない国、3流級国とは貧乏な国、4流国とは植民地であった。だから、日本は一流国になった。そして、安政の不平等条約の一つである「治外法権:外人を裁けない」を撤廃した。しかし、安政の不平等条約のもう一つである「関税自主権がない」ことは日露戦争後4-5年後の日韓併合の時まで、撤廃することができなかった。

 日韓併合時に日本が望んだのは朝鮮の近代化であった。しかし、ことごとく裏切られた。日清戦争で、朝鮮から中国勢を追い出して、朝鮮を独立させた。そして、朝鮮は初めて大韓皇帝となった。そして、伊藤博文が暗殺された。これを恐れたのは韓国であった。当時、天皇を除いて日本で一番偉い人を暗殺したのだからである。蛇足であるが、第2次世界大戦後にマッカーサーがやってきたが、もし彼が暗殺されていたら、日本に天皇制は残っていなかったのではと想像する。そんな血なまぐさい時代に、伊藤博文が暗殺されたのだから、韓国は恐れ、韓国の当時最大の政党が日韓併合を持ち出した。当時、日本は大変慎重だったので、アメリカに打診したところ、アメリカのルーズベルト大統領は、朝鮮は日本のものとの発言をした。イギリスも併合を望むといった。反対はなく、合併することとなった。

 アメリカはハワイを合併した。イギリスはビルマを併合した。しかしこれはひどかった。ビルマでは王はセイロン島に流され、王子は処刑され、王女は兵隊に与えられたという。日本は、合併したが、韓国皇帝はそのままであり、一族も華族として扱われた。また、日本は莫大な大金を使った。小学校を日本国内と同じスピードで建てた。韓国から見れば恨みはあるであろうが、日本は大金を使い整備したことは事実である。当時韓国は、多数の人々は文盲であったので、小学校でハングルを教えた。現在、嘘八百として「言葉を奪った」等あるが、ハングルを広めたのは日本であった。

 満州国ができた時に、日本は満州人の皇帝の直系の子孫である溥儀を皇帝にし、当時幼少であった溥儀を日本人がサポートした。満州国は五族協和の国を作った。すなわち、満州人、日本人、朝鮮人、蒙古人、シナ人の5色の旗の国である。朝鮮人はもともと満州に入りたかったが、シナ人は入れなかった。というのも、満州はシナ人の発祥の土地だったからである。満州国ができても、朝鮮はもともとシナの属国であったので、そのような意識があった。そこで、名前を日本風に変えたいということで、創氏改名の受付を6か月間行った。台湾でも行ったが、台湾では応募者は少なかったが、朝鮮では8割の人が半年の期間に申し出た。

 別の数値を示しておくが、KOREAで志願兵定員400名を昭和13年に募集したところ、2946名(7.5倍)の応募があった。昭和16年に定員3000名の志願兵を募集したところ、144200名(48倍)、昭和17年に同じく定員3000名の志願兵を募集したところ、261594名(84倍)の応募があった。歴然とした事実である。現在、従軍慰安婦なる政治的プロパガンダがあるが、強制的に女子を連れてゆくと暴動がおきたはずであり、そのようなものはなく、韓国政府も日本政府も1件の証拠も見つけられてはいない。

 

8. 当時何故日本は、こんなにアメリカに憎まれたのか?

 日本は日露戦争後一流国となったが、アメリカはそれを認めていなかった。日露戦争後、日本はそれまでロシア権益であった満州の権益を得た1905年に、アメリカのハルマンは南満州鉄道を一緒にやりたいと申し出てきた。アメリカは大陸に投資したかったのだ。当時、イギリス、フランスなどは大陸の良い場所を押さえていたが、アメリカにはなかった。もし、この申し出を受けて、アメリカと一緒にやっていたなら、第2次世界大戦は違った形になったかも知れませんが、虫のよい話なので、日本はこの申し出を断った。そして、アメリカは「日本はアメリカの大陸進出をこばむ邪悪な国」と規定し、オレンジ計画を1906年に作った。

 第1次世界大戦の時に、超重大な事件があった。当時ドイツはどこにも負けなかった。イギリス・フランスの連合軍はドイツにやられた。同時、日英同盟があったので、イギリスに日本は兵の出兵を頼まれた。しかし、日英同盟はアジアの範囲だけの同盟であったので、日本は海軍を貸したが、ヨーロッパに出兵をしなかった。しかし、アメリカはイギリスと同盟関係がないにも関わらず、兵を出したのである。ドイツは負けなかったが世界中を敵に回したので、降参をした。日本は、勝った側ではあったが、日本の言い分はことごとく退けられた。イギリス・フランスはアメリカに恩を受けていたので、アメリカの意思に賛同した。

 日本は、国際連盟に「皮膚の色で差別されない」という提案を出したが、アメリカに反対された。そして、アメリカの圧力で日英同盟は解消させられた。血を流したアメリカの主張にイギリスはなびいた。そして、絶対的排日移民法という日本人差別の法律がアメリカにできた。日系米国人でさえ、自分の子供に土地を譲れなくなった。カリフォルニアの多くの農園は日本人が開拓したのだが、それを子孫に譲れなくなり、現在も日系人はアメリカに少ない。

 日本人は、「何故日本は、こんなにアメリカに憎まれるのか」と思った。アメリカから見れば、理由はあった。アメリカは当時人種差別で成り立っていた国であった。インディアンを退け、黒人を奴隷にしていた。その時に、白人に勝った有色人種の存在はアメリカの根底・国体(国の形)に合わなかった。そして、日本はアメリカを満州に入れなかった。アメリカ人は、人は西に進むとコロンブスのころより考えていたが、日本はそれを阻んだと考えた。結果的には、第2次世界大戦で昭和20年8月15日(アメリカでは8月14日)に日本は敗戦し、アメリカはシナ大陸に進出できるようになった。

 

9. 第2次世界大戦は日本人が「生きるため」の戦いだった

 昭和初期になり、天然資源を持つ国がブロック経済を始めた、すなわち自由貿易ではなくなった。資源のある国は困らなかったが、ドイツでは大不況となり失業率が天文学的数値になり、結果的にヒトラーという鬼っ子が出てきた。イタリアでは、ムッソリーニが出てきた。当時800%の関税をかけて、日本の物を買わないようなことが行われた。しかし、日本は満州の権益などもあり、耐えていた。日本に対して買わないでは効き目がないようであり、売らないとうことも始まった。当時輸入石油量が国内産石油産出量を上回る状態になっており、輸入石油の100%をアメリカに依存していた日本は石油を売らないというブロック経済により、戦争を始めることになった。アメリカは、この戦争を「ファシズム対デモクラシーの戦い」と言い、日本は「大東亜共栄圏」と言った。結果的にアメリカが勝ったので、「ファシズム対デモクラシーの戦い」なるキャッチフレーズが残り、戦後そのような教育をされた優秀な先生方が多数いるが、これは嘘である。当時アメリカは悪魔と呼ばれたロシアのスターリンと手を組んでいた。

 あの戦争は、近代産業をやるために十分な天然資源を囲い込んで持てるものと持たないものの戦いであった。ある国が団結して売らないと言ったのである。戦後マッカーサーは、昭和2653日、米国議会上院の軍事外交合同委員会にて、「彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです。」すなわち、「生きるため」であったと証言している。これは、ニューヨークタイムスに全文が紹介されたが、日本の朝日新聞はこの発言を取り上げたが、この「生きるため」発言を報道しなかった。

 第2次世界大戦について、以下の3つのことを伝えたい。

1)持てる国が囲い込んで、売らないと言った戦争であった。

2)人類としては総力戦として、最大の戦争を日本とアメリカがやった。3年半の間、太平洋で航空母艦や戦闘機を飛ばして戦った最大の戦いであり、最後には、バタバタと負けるのであるが、日本は堂々と戦った。

3)第2次世界大戦後に世界中に多数の独立国ができた。日本人は、有色人種であるが大変強かったことを世界中に見せ、独立の準備を与えた。国際連盟のころはわずか40程度の独立国であったが、現在160か国以上であり、120か国は直接・間接的に日本の影響を受けている。

 1960年代にはアメリカでも黒人運動により、奴隷制度が撤廃された。有色人種には自然科学ができない、近代産業はできないという理由を日本が破壊した。マッカーサーは、日本は悪い国であると思っていたので、敗戦後GHQ統治の時に、日本国憲法も作った。これは、戦時交際法違反で、マッカーサーは自分の参謀で憲法を作らせた。女性タイピストの意見も取り入れられている。一応、日本の国会で採択されていることは事実であるが、これは天皇制との引き換えであった。戦後、何万人の人達が公職追放された。そして、東京裁判があった。また、飛行機などのテクノロジーは禁止され、人が理系から文系に移動した。渡部昇一氏もその一人であった。

 

10. 人種差別のない世界は、日本の先輩の血と汗と涙のおかげ

 戦後アメリカは、朝鮮半島はアメリカの防衛圏にないと発言し、朝鮮戦争が起きた。その時、毛沢東の中国の出現で北からの共産主義の勢力が降りてくると、日本は出なくてはいけない過去の歴史をマッカーサーは理解することとなった。そして、日本はそれほど悪い国ではないということとなり、1952年にサンフランシスコ講和条約で、日本は独立することとなり、賠償金は少ないものであった。当時、国内にはその独立に反対する日本人がいた。ソ連が講和条約に参加していないので、その関係の方々であり、その党から過去総理大臣もでている。日本とは、なんと寛大な国なのか。

 しかし戦後になってみて世界は良い世界になった。「人種差別はしてはいけない」、「自由貿易は良いことだ」なる世界になった。日本が怖かったのは、天然資源を売ってもらえないことだけだった。しかし、問題もある。日本はファシズム国家だったとか、侵略しただとか言われている。シナ事変(盧溝橋事件)を始めたのはシナということも分かっている。日本では、戦後の教育は左翼が行ってきた。教科書も敵国の教科書のようなものである。これにより、日本人に元気がなくなることが一番心配である。日本は先祖を傷つけ続けている。誰でも先祖を貶(けな)されると怒るものである。これを日本ではやり続けている。

 19世紀はアパルトヘイトの時代であった、20世紀はアパルトヘイトを日本が壊した時代である。そして、21世紀は人種平等な時代である。アメリカ独立宣言には、すべての人民は平等とあったが、家に帰ると黒人奴隷がいた。フランスでは博愛精神があったが、これも同じであった。本当に人種差別を壊したのは日本だけであった。

 日本の先輩の血と汗と涙が21世紀の基礎を作ってくれた。

 

以上