むかしむかしあるところに
1年生のプロジェクト・デザイン1における「琉球大学概況調査」の一環として、「情報工の生い立ち」的なものを調査しようとしているグループがあるらしいです。一期生(1994年度入学)ということで白羽の矢が当り、インタビューを受けたのですが、あまり面白い質問も無かったので適当に思いつく話をこっちで書いてみるテスト。
- まだまだPCが高い時代だった事もあり、PCは学科が準備。でも貸出しではなく「使う講義の度に出して使う」というスタイル。データはフロッピー・ディスク保存して持ち歩き。FD1枚に入るOSもあったし、広大だったのよw
- コンピュータを利用する上でのコネタ(置換とかMakefileとか)は、演習サポートしてたTAの人が「ちゃちゃっ」とやるのに感動し、それを個別に質問する形で覚えていったのが多い気がする。LaTeXの使い方とかも教えてもらったこと無いし。
- 用意されてたPCは「漢字Talk」と呼ばれた Mac OS X の古い時代のAppleなOSが動く代物。ただ、そこで何か操作するというよりは、そこからUnixにログインしてプログラミングするといった端末用途が主だった気もする。なので、ログインできないのは死活問題。
- 端末利用といういわゆる「プロンプト画面」から始まるような使い方だったため、センターにあった<MS-DOSマシン(Windows95なんてまだない)を同じものだと思い込み、あれこれやってもログインできないよと谷口先生に泣きついたら酷いことになってたっぽく、強制再起動する羽目に。ごめんなさい。多分これが初めての再起動。
- アカウントは多分学科独自(今は総情センター)で作ってて、最初の数年ぐらいは「初期パスワードがアカウント名と一緒」。これを利用して、顔見知りが入学してきた年度には「予めログインしておいて .login を勝手に弄ってネタを仕込んでおく」というお遊びをして楽しんだ。ごめんなさい。
- 授業中に使うノートPCが利用できない時間帯用に、センターや学科のコンピュータ実習室が用意されていて、早いもの順で空いてる端末を利用することができた。PCではなく端末と書いたのは、置かれてたのがX端末だったから。これは、OSそのものはリモートのサーバというかワークステーション上で動いていて、そこへのI/O受け渡しの役割を担当するマシン。つまり、実際の全ての処理はサーバ側での処理になる。ちなみにワークステーションの数は確か5台ぐらい。(学籍番号下1桁%5)みたいな感じでログインするワークステーションを区別していたはず。(エイリアスされていたかもしれないけど記憶あやふや)
- X端末ということの意味を知らず、「複数端末空いてる時に占有して、各端末でNNのシミュレーション10個ずつ background 実行させては隣の端末にログイン」ということをしてると、そのうちログインすらできず技術員だったかRAだったかサーバ管理してる人に見てもらったら「そりゃこーなるわ!」と説明を小一時間受けた。。。のは嘘で。一瞬「わー!そんなことするとbwが死ぬ!!!」と慌ててワークステーション直結端末に走って行った。ごめんなさい。あ、bwはワークステーションの名前。
- 検索エンジンどころかブラウザもまだ無い時代。archieでいろんなOSSを探しまわって面白そうなのをanonymous FTPしてダウンロード。良く分からないけどコンパイルしてみる。ほとんどの場合できない。このメッセージなんて言ってるんだろう。へー、Patchなんてものがあるんだ。どうやって作るんだろう。なんて事をして遊んでいた。結局何か使えるのがあったかは全く覚えてないw
- ブラウザは無かったが、NetNewsはあった。当時はいくつかの大学とフィードをやり取りしていた(?)のか、fj.*をあちこち巡るのが楽しかった。感覚的にはブログとチャットとツイッターを足して4つで割ったようなもの。いろんな人といろんな話題でオンラインで繋がり合って盛り上がる楽しさはNetNewsで覚えたのかも。
- 2,3年生、1995,6年ぐらい?に最初のブラウザMosaicに触れる。ってWikipedia見たら1993年と書かれているな。私が知ったのがその頃、というだけらしい。同時にそのトップページに指定されていたYahoo!を知り、そこに登録されているページだけでも最初はもの凄く広大に感じた。のは本当に一瞬で、日本語キーワードじゃほっとんど引っ掛からないし、英語キーワードでもちらほらという状況だった気がする。それでもarchie時代に比べればもの凄い進歩だと感じた。WWWに興味を感じた気もするけど、この時点ではまだ良く分からないものという印象だったんじゃないかな。
- たまに面白いページを見つけて「印刷しとこう!」と思って適当にプリンタにお祈りしてみたら「フォントが無かった(?)」らしく、ASCIIコードだか何か良く分からないものが大量(数百枚)に印刷されまくることに。プリンタ上のメモリに全データが残ってたとも思えないけど、印刷キャンセルできず、プリンタ電源ON/OFFし直しても印刷され続ける状態にTAが呆然としていた。ごめんなさい。
- 3年生あたりに初めて個人PCを購入。Macintosh LC630, 33MHz, 16MB, 300MB (全部うろ覚え)とかそんな感じのマシン。取りあえずHello Worldだよなと、ソフト買う前に試してみたいということで借りた CodeWarrier(XCodeの前身) で試したら、Hello Worldのコンパイルに1分、実行に1分かかる有様で、とてもじゃないけどプログラミングする気にはなれなかった。今考えると、ソースの長短に関わらずライブラリやらを読み込んでリンクして〜〜〜という一連のデフォルトで必要になる手続きが長かっただけで、多少ソースが長くなってもそんなに大差ない時間でやれたんじゃないかと思うけど、我慢できなかった。ということで、それ以降はもっぱらレポート作成&ブラウジングマシンに。
- ちなみに当時は「繋ぎ放題」なんてものはなく、使えば使っただけお金がかかる料金体系。ちょっと面白いBBSにハマると「月に数万」とか平気で飛んじゃったので、自宅からの接続はちょっと自粛するようになった。イタすぎるって。
- 4年生になって研究室配属され、研究室単独で管理しているワークステーションが一台あった。それ一台で百万だかウン百万だかしてたっぽい。グローバルIP持ってるし実際研究室のWebサーバとしても、メールもNFSもあれこれ「ちゃんと」動いていた!それに触れる!文字通り感動!それからはずっと先輩らに聞きながら、先輩らがいる間はサブで、卒業してからはメインの管理者してました。あれは楽しかったなー。
- 研究室に配布されたデスクトップPCも、今考えたらグローバルIP振られてたような気がする。なんとなく。だけど性能的に「サーバにも使う」なんてことしてたら計算機として使うのがはばかれるようなスペック(Pentium 200MHz, 32MB, 500MB?)だったので、基本的にはパーソナル用途としての利用しかしてなかった。勿体無かったかもしれない。
- ちなみに今ある「工学部1号館」は当時はまだ無く、4年生の途中で完成した。ので卒研最終発表とかそこら辺の発表練習する時に勝手に乗り込んできれいな部屋で寝そべりながら研究活動したりした。それまでは今でいう工学部3号館をメインに、不足分を2号館に、という形で分散する形。複雑研も2カ所に分かれてて、私は「離れ」の2号館に配置されることに。だけど、3号館からは遠いので他のメンバがあんまり来ない。必然的に私は一人になりがちで、複数あるPCを独り占めして「これはゲーム用(ry」みたいな使い方を満喫していたw
- 寂しい時は talk。これ鉄則。
- NetNewsでの交流や、Yahooの登録件数が増えて検索エンジン(と当時呼ばれていたかは覚えていない)として使いやすくなってきたのが4年生ぐらいの頃。丁度自分自身サーバの設定やらあれこれ学び始めた時で、ここみたいに自分でもWebページ用意するようになった。参考になったページの作者にお礼したり、間違い見つけたらメールしたり、そんな感じのやりとりが自分的には普通になっていった。
- そういうのと同じノリで、研究ネタについても割と細かくWeb公開してた時期があったのだけど、遠藤先生から「論文化する前に公開されたらどうしようもない;;」という説得で辞めることに。当時は「ま、別に良いか」ぐらいの気持ちだったけど、これは今考えると結果的にはもの凄く損してしまったように思う。(ので、うちの学生には基本はがしがし書くように指導している)。この気持ちはオンラインを通したいろんなやり取りを実際に体験しつづけないと理解し難いとは思う。
- 研究関連といえば、駆け出しで論文というのを読み始めた頃のこと。後ろについてる参考文献を読みたいと思ったが上手く探せず(図書館で文献探すシステムはあった)「この文献が見つからないんですがと言いながら【Proc.から始まる出典】を指し示すと笑われた」もんだなー。若かった(ぉ
- 一番笑えたのは、こんな頻度の低い英語ページを用意していただけで、国際会議の窓口の人から「ルートビア・キャンディー」が送られてきたこと。何も知らずに英語で「Finally Found!!!」みたいなことだけが書かれた小包が届いたのだけど、丁度その時って2001年9月11日からのアメリカ同時多発テロ事件に引き続き、粉末化した炭疽菌芽胞が郵便物として送付され、肺炭疽が発生した直後ぐらいのときで、正直半分怖かったw 名前に見覚えがあるけどどこだっけ?と思い出すことができなければ捨ててたかもしれないw でも、これでルートビア・キャンディに出会えたのだ!ありがとうございます!!
関連URL: (column) 管理者デビューしたあの日