同じ呼称でも中の人は人次第

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査読進めておこうと思ってたけど時間が取れず、FAN2012関連のチェックしながら打ち合わせしてるだけで一日が終わった感。その間にゼミ2回あった分何も無かった訳ではないけど、これから消耗品確保/資料準備/院試/マスターズ(FAN発表練習)/会場最終チェック/FAN当日、、と続いていくのを想像するとちょっと泣ける。それでも一歩ずつ進まないと終わらないので進みますが。

話変わって先週終わったプロジェクトデザイン最終発表の件。日記に書くのはこれが3回目かな。数年前から学部1,2年生のグループワークで勧めるプロジェクトをサポートするため、大学院生がPMとして関わるという話は既にしました。このPMについて、サポートされてたはずの学部生の方ではどう感じたのだろう。

  1. ほぼ毎週進捗確認があり、その都度アドバイスを受けた。
  2. 相談すると、アドバイス等を受けられた。
  3. 殆ど何もしてくれなかった。

上記は半分推測で書いた実例のつもりです。半分推測なのは、言葉こそ違えどそういう風に解釈してしまうような言葉をTLや口頭で見聞きしたから。ということで半分推測半分実例みたいな感想ですが、何故こんなにも差のある感想になるのか。それは「PMという自動機械」が処理するのではなく、「PMと呼ばれる人」が対応するから。

PMは一つの役割が求められていますが、だからといって全てのPMが同じように行動できる訳ではないし、プロジェクト推進の仕方で学べる技術的(知識的)な術は知ってても、それを上手く遂行するための術は千差万別で現場毎に違うでしょう。PMと呼ばれてても人によって行動は異なるのが当然です。それはPMに限らず、「**社の人」「琉大の先生」「情報工の先生」「県庁の人」とかでも何でも一緒。いろんな呼称がありますが、その名前の下では具体的に人が集まって行動している。だから中の人次第でもあるし、中の人も人間なので的外れなことをしてしまったり、納得できない対応される可能性もあります。

じゃ、PMなんて必要無いじゃん、ということではなくて、それを前提に互いに行動しよう。ほったらかしに近いPMでもそれが向いてるグループもあったりする訳で、社会的には「こういう人じゃないと生きてる価値無い」みたいな息苦しい社会よりは、いろんなタイプがうまく互いを活用できる方が幸せでしょう。こういうのも一種のリスク管理だし、社会として少しでも前進することに繋がる。講義で失敗したことは、行動分析するなり原因追及して次に繋げよう。互いに。