日本認知言語学会 第13回全国大会 0日目(プレ・イベント) #JCLA

Share on:

日本認知言語学会 第13回全国大会のプレ・イベント、セミナー「認知言語学と日英語対象研究-ことばからこころと文化に迫る-」に参加してきました。初潜入なのでわくわくドキドキですよ。

参加してきたといっても沖縄からの移動なので、空路で羽田に向かってから陸路で電車乗り継ぎまくってようやく着いたのですが。Webで適当に見つけておいたお店ハーブ&おいしい野菜塾レストランは個人的にはアタリ。前菜+スープ+メイン選択+デザート+ドリンクのセットで1500円。メインは肉/魚/ピザ/包み焼きピザ/今月の一品みたいな感じで数種類あってどれも美味しそうだったし、土日も空いてるようなので時間取れそうなら行こう。

会場の大東文化大学はお店からも近く、徒歩数分で到着。駅からでも20分弱ぐらいでそんなに遠くは感じなかったのだけど、会場での話を耳にする限りでは遠いと感じてる人も少なくなかったっぽい。あと何か高校と連携してるのかたまたまイベントか何かあったのか分からないですが、JKの皆さんが一杯いたな。

肝心のセミナーの詳細は以下を眺めてもらうとして、個人的には現象ベースの話で、
 ・スキーマ抽出能力:特定の状況化で共通するスキーマを把握する力。
 ・プロトタイプ:特定状況を想定していない状態、デフォルトでの意識レベル。
 ・フレーム:ある概念を理解するための前提となる背景的知識(の総体)。
 ・ブロッキング:特殊な表現の方が複合的表現より優先される言語体系に根ざした制約。
といった話を聞けたのが良かったかな。

一仮説ぐらいの位置付けでもちょっとすっきりした感。とはいえ、こういう能力なりをどうやったら生得的/経験的に得られるのかは別問題だけど。リファレンスたっぷりの資料貰えたのと、何かあったら改めて質問できるなということでやっぱり参加して良かったかな。

ちなみにホテルについてから気づいたんだけど、明日は浅草流鏑馬なんてイベントがあるらしい。がっつり学会日程と被ってるので見れないけど。しくしく。

以下、當間個人で解釈した概略メモです。誤解/誤認等多々あるかと思いますのでご注意を。


<目次>


第1講義: 語の意味の対照研究

現象は誰にでも開かれているので、現象から考える
対照言語学
 個別の異なる側面が強調されがち
言語相対主義
 言語は話し手の思考や経験のありようにも影響を与える
  (この点をさらに押し進めた理論→言語決定論)
認知主義
 概念化の問題
 相対主義を無視することはできないが制限ない相対主義は
 「人間言語に共通の認知的仕組みが働いている」点を見落としてしまう危険性がある

「水」とwaterをめぐる相対論
 英語には「湯」に当ることばがない。
 明確に区別する必要がある場合にはhot waterと言うことも出来るが、
 waterは、温度に関しては元来中立的な性質を持っている。
 →一つの言語の中で終始生活していれば「ものとことばの関係」は懐疑の対象にはなりにくい。
  他言語と比較することで「特定言語に依存している恣意的な区別にすぎない」ということ
  が初めて理解できる。
  →【共通の認知基盤は無い?】

「水」と「湯」の対立と中和@液体当てクイズ
 ガソリン/アルコール/湯/etc.,,,といった様々な液体が用意された状態で、
 「液体の正体をあててください」という状況下では「湯」であっても「水」と答えるのが
 自然ではないか。
 →日本語でも湯と水を区別しないことがあり得る。
  「一定の用途」という文脈を離れると、「中和」という現象が見られる。
  「水」と「湯」の対立だけに見られる現象ではない。
  →共通スキーマの抽出/スキーマの把握/カテゴリー化能力

中和の類例
 「米」とrice:もみ/稲/米/ごはん
レトリック論
 意味の伸び縮み:シネクドキ(提念)
  *一種のスキーマ化能力?

waterのプロトタイプ
 waterも元来温度に対して中立という訳ではない。
 言語論から離れて一般的なカテゴリー論でいう「プロトタイプ」が無標の概念に相当。
 プロトタイプに基づいた一般化。
 とはいえネイティブに尋ねても様々な要因が絡んで必ずしも適当な答えが出るとは限らない。
 →類例に頼る
  naltoma: 判例が出てきた場合には例外として扱う?理論を見直す?
   時代/環境などの様々な要因が絡む部分もありそうだが。

プロトタイプから特殊化/特定化されるのは文脈に依存する
 山田は走れない
  (1)山田はリハビリで歩けるようにはなったが、まだ走れない。
  (歩く/走るレベルでの走る)
  (2)山田は先頭打者には向いていない。走れないから。
  (走るの中でも「速く走る」というレベルでの走る)
   *「速く走れないから」と【言い換え】ることも可能だが、省略しても通じる。

naltoma: プロトタイプと特殊化という考え方をするということは、
  ひょっとして認知言語屋さんにとっては「言語」は表層的なものだけではなくもっと
  厳格なものとして認知し合っていると考えてたりする?

「熱い水」とブロッキングの法則
 複合的な表現とすでに存在する特殊な表現が同じ意味を表す場合、特殊な表現の方が
 複合的表現より優先される。
  話す→話せる
  スポーツをする→スポーツが{*すれる/できる}
 殺す=死なせる:死なせる⊃殺す
  「殺した」ら「死なせた」のと一緒だが、「死なせた」からといって「殺した」とは限らない。
  *分業が生じる。「死なせる」は「殺す」より長い語として作られたので、より広い意味を持つ。
 ブロッキングは様々な要因が影響
  例えば「頻度」。あまり普段使われない用途だと複数共存する。
  schema/schemata/schemas
  例えば「フォーマリティ」。昨日/本日/明日。きのう/きょう/あす。
   意味にも様々な段階がある。

水とwaterに関する概念化の背後には、
言語的違いスキーマとプロトタイプによるカテゴリー化の仕組みが同じように働いている。
→強い相対主義のいう「外的世界に対する認識のありようの恣意性」を指示するものではない

常識
概念理解とフレーム:ある概念を理解するための前提となる背景的知識(の総体)
 言語だけでは違いが強調されすぎる
  飴を口に入れる/煙草を口にくわえる:put in one’s mouse
  常識的知識があるからどちらも put in one’s mouse と言える。


naltoma: 常識とかフレームと呼んでいるものは、工学的に実現できないのか?
naltoma: 人間同士の対話では即興的に文脈を擦り合わせていくことでカテゴリー化や
 特殊化をしていると思われるが、即興的に気づいた文脈であっても何度も繰り返し
 起こることで普遍性の高い文脈を獲得する、つまりスキーマを抽出した際の文脈を
 築き上げて行くと思われる。この文脈獲得とスキーマ抽出は「鳥と卵」にも見えるが、
 人間は生得的にどちらの機能も有しているのだろうか?
 文脈獲得とスキーマ抽出が必要な環境で育てられるから教育効果として獲得しているのか?
naltoma: 文脈獲得とスキーマ抽出があれば一般的な意味での「言語」を獲得できる?
naltoma: 学生が新しい事物について学んでいるとき、文脈獲得やスキーマ抽出が
 できていないと応用が利かない?


第2講義: 言語における主体性の対照研究

(第1講義の補遺)
概念理解とフレーム
 状況を見る時に「一定の背景知識」を持って見る。
 e.g., 日常的フレーム/科学的フレーム
  普遍的に使われるようになると辞書にも登録されるが、それまではフレームでしかない。

リフレーミング:対象の捉え方を変える
 fat -> horizontally challenged
 short -> vertically challenged
 個人のレベルでの「心の持ち方」
 →言語レベルではより普遍的な(特殊化された)文化や文脈にも繋がる。
  見方を変える、心の持ち方を変えるためには「言葉」が必要。
  *様々な状況把握を実現する語彙力が重要

naltoma: パターン・ランゲージ?

(第2講義ここから)
言語学で言う「主体性」:ことばで自己を表現すること
 日本語から見た日本人は、個としての自己意識が強く、だからこそ逆に、
 対人関係には敏感となる。日本人にとって対人関係は建前として重視しなければならないが、
 その影には本音としての強い自己意識がある。

日本人は「集団主義的」である?<- [高野2008]で批判(肯定する人もいる)
言語行動の集団モデル
 日本人の言語行動は「ウチ・ソト」の対立等に見られる集団性の論理によって支配され、
 個の主体性は集団に同化・埋没する。
 →西洋語以上に強い個の意識に根ざした言語体系が存在することを言語的証拠で示したい

一人称代名詞
親族指示語の使い分け
授与動詞(くれる/やる/あげる)の使い分け:ウチ・ソトに基づく自己意識の流動性
尊敬語・謙譲語の使い分け

ウチに同化しない絶対的な自己
 心理述語の文法:自他の厳密な区別に基づく
  e.g., わたしはうれしい母は{うれしがっている/うれしそうだ}
 「話し手は自己以外の他者の心理を直接知ることができないという一般的認知制約」
  I am happy You are happy
   言語上は違いが出て来ないが「うれしい/うれしそうだ」という認知になっているはず。
   *常識が言語体系に現れて来ない例

日本語における絶対的自己の優位性
 絶対的自己の意識は言語修得の早期に現れ(自然獲得され)るが、
 相対的自己の概念獲得はかなり後(教育によって教え込まれる)。
  書店に相対敬語の本が並ぶ様はある意味で奇異。

naltoma: 言語が思考や経験のありように影響を与えるのであれば、
 「社員教育としての相対敬語」をなくすとどのような影響を及ぼすと考えられるか?

普遍的概念としての自己とその二面性
 絶対的自己:言語主体としての自己(普遍的概念)。
 思考表現の手段? コミュニケーションの手段?
 公的自己:(意識のレベルで良い)聞き手と対峙する伝達の主体としての側面。
 私的自己:聞き手を想定しない思考・意識の主体としての側面。
  日本語は「公的表現」「私的表現」が発達している言語

naltoma: Twitter TimeLineでのメンションを使わない「談話」は
  公的自己と私的自己が渾然一体となっている状態?

声色が果たす役割

「裸」の自己とその衣服
 「ぼく/わたし/お父さん/先生」などの表現は、その私的自己に場面に応じて着せ分ける衣服。
 衣服を脱げば、個としての意識の主体である「自分」がそこにある。

naltoma: 言いたいことは分かるけど、礼儀/忠誠心と関係させて「衣服」という
  例えは無理矢理すぎるような。。

日本語に反映される日本人の自己概念
言語というのは思考表現する機能と、コミュニケーションする機能の2面性がある。
概念的なレベルでの共通化するのを「外から内」に向けて共通化するか、
「内から外」に向けて共通化するかの違いがある。

naltoma: 内とか外と表現しているもの自体が概念的であり、
 どちらがデフォルト(プロトタイプ)なのかを解釈する人が
 どういう文脈で解釈するかだけの話では?


質疑応答


Q: 関西における2人称の「自分」が何故残っているのか。
A: 独自に進化したものが普遍化している例。他者のままだと対立構図の側面が強くなるが、
 他者を通して自己として表現することで厳しいことを親身さを持って伝えることができる。
 「自分」は近親憎悪まではいってない良好な状態。

Q: 水と湯の例で、液体のように上位に考えがいかないのは何故か。
A: basic levelと呼ばれている。上位概念には液体のように
 subordinet/superordinetを考えていくのもあるが、
 その中核にはbasic levelがあり、普段の生活には無いレベルは生じにくいという考え方。
 [Mori, Yuichi 2006]
Q: 特殊化について、水1が文脈に応じて湯に特殊化されたという話があったが、
 水2が拡張して湯に特殊化されたという解釈はできないか?
A: 水1,水2のようにインデックスを振ってはいるが、こういう解釈自体がおかしい可能性もある。
 数字を付けてしまった時点で一人歩きしてしまう側面もある。
 水と湯では水の方がより日常的だと思うので、上の方に来るのが自然ではないか。

Q: ある言語で区別されてるからその区別が意識に上りやすくなるという話があったが、
 逆方向は無いのか。例えば英語圏よりも湯が日本では身近な存在なので区別されたのではないか。
A: それ自身がどういう段階にあって、段階に応じて取るべき対応を取る必要がある。
 そこを区別するために異なる特別な名前を付けることで意識しやすくなるのが最も単純なアプローチ。
 重要なものには名前を付けることで、それを重んずる文化が深まる。
Q: 言語的な区別が出発点なのか、認識に上りやすいのが出発点なのかどちらが先かというよりは両方?
A: 言語を通じて教えるというのがあると思う。自分より年上か年下かとか。
 言語として文化的側面も刷り込まれる。
 縦社会年功序列という側面と、成果主義という側面とが出てきたことで、
 旧来の価値が言語的に残りながら新しい社会的価値が対立している状態。