No. 971/1090 Index Prev Next
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From: "Nakagawa" 
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Subject: Re: 30条と49条 (罰則関係)
Date: Fri, 29 Sep 2000 23:48:08 +0900
Organization: PLALA
Lines: 94
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中川@つくば です

何度も括弧付で念を押しますが、以下の議論は、法解釈的な
反論というより、「私には不自然に見える」という、
いわば感想文みたいなものです。

ISHIBASHI wrote in message < 8r0jk3$4ia$1@bgsv5905.tk.mesh.ad.jp> ...
> ISHIBASHIです。
> (2) もうひとつは、
> Bは、Aにしか貸与していない。しかし、Aは公衆の一員である。
> したがって、公衆の一員に貸与するのであるから、「公衆に貸与す
> る」に該当する。
> つまり、Bが貸与したのはたまたまAであるが、Aと同様の投稿を
> したならばBが貸与したであろうAと同レベルの人は、C、D、
> E、F…と多数存在する。A、C、D、E、F…は「多数」である
> から「公衆」と考えられる。そして、公衆の一員に貸与するという
> 事も、「公衆に貸与する」という表現に含めるという考え方です。
> この考え方では、貸与する対象は「公衆」の一部又は全部であり、
> 人数から考えると、「公衆」> 貸してもらった人(公衆の一員)
> という不等式になります。


岩田さんの中間層不在説の骨子は、「一人でも公衆」
で、Aそのものが公衆だったわけですが、
ISHIBASHIさんのお考えでは、「母集団を考えろ」
そして、母集団が公衆ならば行為を公衆に向けたもと認める、ですね。
その場合、母集団をどう決定するのでしょうか?

普通は、貸す人にとっては、困っている人が一人居る、
(他の日本人全部が困っているわけではない)
という事実のもと、その人がちゃんと返してくれる人かどうかを、
それこそ、記事のシグネチャ、メールで連絡したときの態度、
などを総合的に見て、判断した上で、貸すのだと思います。
それは、ある意味で、「顔は知らなくても信用置ける友達」
になるための通過儀礼と類似したものです。
そうやって貸す人に対して、
「あなたは、日本人なら誰も良かったんではないですか?」
と問いただすのは、殆ど言いがかりに聞こえます。
(ここでの論法は、もちろん常識との比較であって、
 きちんとした法解釈論ではありません)

その行動と、世の中多くの公衆に対しての行為とを、
横一線にするのは、法解釈として、
著作権法の中で一貫し・整合しているかどうか以前の話として、
私には納得できません。
(それは法として間違っている、の意味ではなくて、
 他の読み方もあるのに、この読みかたがより自然であるとする
 主張には同調できない、の意味です)

> なお、少人数への譲渡貸与の場合は、著作権者の利益の損失が僅か
> であるという点から、(1)の解釈の方が妥当であるという見解も
> 有ると思います。しかし、(1)の解釈ですと、113条1項2項
> の規定ぶりが不合理であると思います。113条1項2項には、著
> 作者人格権を侵害する行為によって作成された物の頒布についても
> 制限されています。しかし、著作者人格権の場合は、少数人への譲
> 渡貸与なら問題無いという性質のものでは無く、それよりも公衆の
> 一員に自由に譲渡貸与できるという状態自体が問題になるのではな
> いでしょうか? あと、複製権について考えると、113条1項2
> 項は違法複製者の特定が困難である点にも鑑みて設けられた規定で
> ある点も(2)の解釈の理由の一つになるかもしれません。


113条1項2号の規定は、私にとっては、
「頒布」の言葉が多数を含意する事、そしてそれは、
「頒布」のなかに「貸与」が含まれていても変わらない事の、
傍証と読めました。
何しろ「頒布を目的に所持」していても摘発できるのですよ。
それは「私用目的のために所持」することと「頒布を目的に所持」
する事が区別できることを当然に前提としているとしか思えません。
そのため、この項目の存在から、
公衆要件の解釈がどうであれ、一人に貸すだけの行為が
頒布に当たる分けない、と考えていました。
(この議論の道筋は、解釈論的には本末転倒ですが、
 整合性の確認としてなら、構わないでしょ?)

一つだけお尋ねしたいのは、ISHIBASHIさんは、
ご自分の解釈は、立法者が予定したものだと思われますか。
それとも立法者が予定したものではないけれど、
次第に解釈が変化してきた結果とお考えになりますか?

もし前者だとお考えならば、
私との考えのズレは、きわめて大きいように思います。
それは、上のような条文解釈を予定していながら、
著作権法に今ある条文の形でしか、
それを表現できなかったと考えるのは
立法者の表現能力、言語感覚、語彙知識を、
あまりにも低く見ることになると思います。

# べつにヨイショするわけではないけれど、
# およそどの法律も、そこで書きたいことが簡潔に、
# 明確に書かれている点で、立法者は、言葉の天才ではないか、
# と思うことさえあります。


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