参考文献に頼ろう
金曜日, 1月 13th, 2012卒論修論シーズンということで、度々話題に上がる「参考文献が殆ど明示されていない、酷い場合には研究室内先輩の卒論/修論一つしか挙げてないケースも」を思い出したので、参考文献にまつわるコラムでも書いてみます。
参考文献の必要性ついては、Google先生にお伺いした所「参照文献はなぜ必要か : その目的と機能」という素晴らしいページが見つかりました。曰く、
「内容が思いつきや独り善がりでないことを示すこと」
「証拠立てられない私見だけでは論文にならない」
「先人の業績を知らなければ自分の研究の価値がわからない」
「研究の結果がどれほど興味あるものであっても,同じことをすでに他の学者が発見していたとすれば,多大の努力によって完成した業績も意味の少ないものになってしまう」
「参照した文献を明示することにより,著者側から読者に関連資料の存在を伝えると同時に,読者側からはその研究分野の動向を確認・評価することが可能になる」
「他人を模倣するのではなく、自分ひとりで他人とは違う考えを編み出せたと思ったとき、それがほんとうに独創的であるケースはめったにない」
「研究というものは、他人がすでに明らかにしてくれたことがらの莫大な蓄積の上に、ちょこっと、自分がはじめて明らかにしたことを付け加えることによって進んでいく」
「自分がどのような素材(調査、統計、テキスト、先行論文)を使ったのかを明示し、それがどこで手に入るのか、そのどこを使ったのか、第三者が必要とあればいつでもチェックできるように、こうしたことを論文の中にきちんと示しておかなくてはならない」(参照文献はなぜ必要か : その目的と機能より引用)
などなど、様々な視点から「参考文献」の意義について触れられていますので、そのページを参照するのが手っ取り早いですね。
ここでは上記ページで触れられていない点について書き加えます。
(そう、この記事も別の記事を参照しているからこそ多くのことを省略できるし、自分が主題にしたいことに注力することができる)
論点を絞り込むことができる
これまでは良く分かっていなかった何かしらの課題(問題点, issue)を明らかにすること自体が目的であったり、既に合意の得られている課題についてトライしたことについての議論であってり、何かしら論点が一つ以上含まれているはずです。このとき、自分にとっては「論点にしたくない課題/仮説/前提」について、他の論文で論じられているのであれば、それを参考文献として示すことで「この人が論じたことだ」として一種の逃げを打つことが可能になります。具体例として、先程のページ冒頭から引用すると、
日頃から習慣的に本を読むか読まないかは各人の自由、人それぞれの趣味嗜好に属することで、 本をまるきり読まなくても多くの人はなんら支障なく日常生活を送っているようです(注)。
(参照文献はなぜ必要か : その目的と機能より引用)
では、「本当に支障無く日常生活を送っているかどうか」自体が一つの論点になり得ますが、ここでは「参考文献を付けることの目的と機能」について論じたいのであって、その前段について、もしくはその前段の前段、前段の前段の前段、、、についていちいち論じていては一向に進みません。本当に支障無く日常生活を遅れているかどうかなんてことには興味が無い(言い過ぎ)か、その参照した論文で論じられている内容で十分担保できると看做すことで、責任の一部をその参考文献著者に委ねることができます。これにより、自分が主題としたい論点に的を絞って論じることがしやすくなります。
もちろん、その参考文献自体の正確さや信頼性次第では「参考文献として妥当ではない」と看做されてしまい、場合によっては「こんなものを参考文献として挙げてるようでは論文の信頼性もたかがしれている」という評価に繋がることもあるでしょう。この意味で、適切な参考文献を列挙することが求められる訳です。このような「参考文献の適切さ」を互いに担保しようとする努力を延々と積み重ねることによって「今貴方が書いている論文の信頼性」を少しでも担保することができるようになりますが、このあたりは先に示したページでも述べられていることですね。
ということで、ある一面だけを強調すると「責任逃れ」のために引用するとも言えます。論文内の全ての論点に貴方自身が全責任を負えるなら、全ての論点について読者が納得できるよう全てについて論じましょう。それが無理なら、適切な参考文献を示して責任逃れをしましょう。参考文献を頼りましょう。
ということで、卒論/修論での適切な参考文献一覧を期待しています!